「英語を学べばバカになる」?

 6月24日、薬師院仁志『英語を学べばバカになる グローバル思考という妄想』(光文社新書)を読了する。この本の論点はけっこう多岐に亙っているのだけど、大まかにいえば、アメリカ=世界という混同を戒めるということになるだろうか。英語に対する熱狂の背景にはこのような誤解があることになる。この本の中で、〈英語至上主義者〉として一貫して〈悪役〉を務めるのは、船橋洋一氏(『あえて英語公用語論』文春新書、2000)である。また、「欧米」ということの解体。「欧」と「米」は違うのであって、「欧」から見て、「米」はかなり特殊だということ。ただし、著者は仏蘭西語使いであり、仏蘭西での生活経験もあり、ここで「米」と対比されている「欧」は多分に仏蘭西をベースとしたものである。
 全般的に共感する部分は大きいのだけど、著者も「アメリカでは、何事も、単純な二分法に還元されてしまいがちなのである」(p113)という罠に陥ってしまっているのではないかという感はある。勿論、〈英語〉とか〈アメリカ〉という悪役を明瞭化するという戦略的なものであることは理解できるけど、〈木乃伊取りが木乃伊になってしまう〉ということなら、元も子もないではないか。或る意味で、それ自体がAmericanisation=globalisationという「妄想」ではありながら、現実的=社会的な力を持ってしまっている事態の産物であるといえなくもない。
 英語。そもそも単数のEnglishなどという言語は存在しない。〈英語〉と〈米語〉の差異というのは明らかだけど、それだけではない。上で、敢えて-zatinではなくて-sationという表記をしたのだけど、かなり前に若い子から、realisationと書いてあるけどミスタイプでしょうかと質問されて、英語=アメリカという妄想というか、英国帝国主義の没落というか、アメリカ帝国主義の覇権というか、遂に極まったな、とのけぞってしまったことがあったのだけど、いいたいのはそういうことにとどまらない。英国の中にもアメリカの中にも、パンク・ロックでお馴染みのコックニーとかヒップ・ホップでお馴染みのエボニクスといったように、階級や地域やエスニシティによって様々な差異があるけど、それだけではない。また、シンガポールにはSinglishがあり、香港にはHonglishがあり、つまりは存在するのは単数のEnglishではなく、Englishesだということになるのだけど、これは英語というもののそもそもの歴史的本質に関わっていることなのではないか。英語は世界最大のクレオール言語だということ。だとすれば、英語を巡る言説というのは、本来的にはありもしない(あったとしても、極めてコンティンジェントな社会的状況の中で構成されたにすぎない)単数の英語なるものを巡って、ouiかnonかを迫っているものにすぎないということになる。また、そうすると、自ずとoui/nonという「単純な二分法」ではない戦略(無−戦略?)も開けてくる筈。これは正確ではないのだけど、constructionでもdestructionでもない(どちらでもある)deconstructionというものがあるように。
 ところで、この本を読んで知ったことなのですけど、「国連英検」(「国際連合公用語英語検定試験」)というのは、「国際連合が実施する英語の検定試験ではない」(p.20)のですね。主催者はただのNGOである「財団法人日本国際連合協会」で、実際の運営をしているのは「国連英検試験センター」という「民間企業」。
 この本は、英語批判に名を借りた新自由主義批判だとすればわかりやすい。ということで、アメリカが〈悪役〉となるわけだけど、(著者も多分気付いてはいるのだろう)パラドクスがある。それは世界を股にかけるエリートでも何でもない偏差値50的なアメリカ人である。この人たちは或る意味でグローバル化の犠牲者である。仕事はメヒコや中国や印度に奪われてしまうし。この人たちにとって、英語というのは(世界の他の場所とは違って)まさにグローバル化への抵抗のシンボルであるかも知れないということ。また、その一方で、この人たちがアメリカの現体制を愛国的に支持し、実際に兵隊としてアメリカのグローバルな戦略を支えているということ。イラク戦争の時にアメリカで仏蘭西に対するバッシングがあって、それに対して、そもそもブッシュ(或いはイラク侵攻)を支持している連中の大半は、仏蘭西のワインも飲んだことがないし、仏蘭西映画も見たことがないし、勿論仏蘭西の哲学も読んだことがないのだというコメントがあった。英語を学べばバカになる−−これは場所によっては、仏蘭西語を学べば、日本語を学べばバカになるというふうになるかもしれないということ。
 さて、この本の後半で、興味深い指摘があったので、ちょっと書き写しておくことにしたい。グローバル化の一つの帰結に関して。


 むしろ、情報ネットワークの拡大は、知ることさえなければ起こらなかったに違いない葛藤を生み出してしまった。情報ネットワークで結びつけられることさえなければ、互いに”知らぬが仏”状態で、価値観を対立させ合うこともなかった者たちに、お互いの姿を見せてしまったのだ。つまり、知り合う必要もなく、知り合わなければ嫌悪し合うこともなかった者たちを結びつけてしまったのである(p.220)。

情報ネットワークのグローバル化発展途上国にもたらしたものは、コミュニケーションの豊かさなどではなく、欧米−−あえてアメリカと言わないまでも−−の文化を一方的に浴びせかけられるという事態である。途上国の人々は、この文化帝国主義に苛立ち、不満を感じ、拒否反応を強めている。
 (略)発展途上国に暮らす庶民は、先進国からきた人間たちから写真を撮られ、テレビに映され、取材され、観察対象にされるばかりで、逆の関係はほとんど成り立っていない。両者の関係は、極めて不平等なのだ。途上国には、自分たちの姿を映した作品や番組を見ることさえできない人々も多い。このような関係は、一種の動物園状態だと告発されている。
 先進国の人間は、発展途上国の人々の生活をのぞき込む。それで、世界を知り、異文化に触れたと思い込む。だが、そこには何の相互理解もない。コミュニケーションすらない。ただ一つ、一方的にのぞき込まれ、一方的に情報を送りつけられる側にいる人々の反感があるだけである。発展途上国の人々が地球規模の情報市場に組み込まれれば組み込まれるほど、それだけ多くの違和感や反感、さらには憎しみをも生み出すのである(pp.220-221)。




 ところで、久しぶりに近所のBook Offを覗いてみる。散歩のお土産という感じで、何冊か古本を買ったけど、その中で1冊書名を挙げておけば、鶴見済『檻のなかのダンス』(太田出版、1998)か。


 「中国:「低農薬・有機食品産業の発展は貧困脱却に大きな意義」
 そういえば、『週刊金曜日』5月27日号で、麻生晴一郎氏が北京大学のヴェジタリアン学生組織「北京大学素食文化研究会」を紹介している。麻生氏曰く、

 経済成長があまりにも早く(sic)、そして、バランスに欠けるきらいのある中国では、さまざまな分野でまったく対立する事象がともに台頭している。ここ数年、外食産業が振興しグルメブームになると同時に、スローフードや菜食主義も提唱される。高度成長のごとく働きづめを美徳とする価値観と、スローライフ、あるいは若者が仏教に関心を寄せるなど癒し文化も広がっている。
ただし、「まったく対立する事象」とは必ずしもいえないとは思うけど。