心/道徳

 土曜日のCSFに向けて、原稿を作成中。
 基本的に既発表論文の内容をしゃべることになるのだが、そのままというわけではなく、〈新ネタ〉をリミックスして、新しいヴァージョンを作ることを目指している。そのための仕込みを兼ねて、幾本か論文を読んだ。
 例えば、

 山田陽子
 「「心」の聖化と現代人の自己形成−−「心の教育」における道徳と「心理学」の交錯−−」
 『ソシオロジ』149、2004

 著者によれば、「近年、人間の精神の在り方や人格の望ましさの規準が、宗教的要請や当該社会の道徳というよりも、むしろ「心理学」の語彙や視点によって特権的に規定される状況が世界的規模で進行している」(p.85)。「心理学」はいまや「特殊な悩みの解決法という範疇を超えて現代人の多くを対象として巻き込み、自己の構築・維持・取替えや対人関係の操作、日常的な思考慣習・行動様式の成型加工に科学的正当性と多様なオプションを提供しつつ、非暴力的な社会統制装置としての機能を増大させている」(p.86)。
 「いじめ、「キレる」事件、不登校といった個々ばらばらでそれ自体複雑な事柄を一括りにして「心の危機」という名前を与えることによって、それらはすべて「心」の問題として定義しなおされる」。つまり、


いじめや殺人というニュートラルな事実は、その他の不適応行動とともに「心」という領域で処理されるべき事柄となった。「心」という正体不明のシンボルが危機であるという主張は、殺人やいじめを人格侵犯行為と解釈して道徳の復興を唱えることも、心理学的な説明を与えてセラピーやカウンセリングの対象として取り込むことも等しく可能にする(p.88)。
 著者が事例として取り上げる兵庫県「心の教育総合センター」の研究実践は、著者の記述を読む限りでは、「心」の問題として同じ土俵に乗せられた「道徳」を「心理学」に還元する試みといえよう。そこでは、

 いじめや「キレる」事件など、大義なく聖なる人格を侵犯する行為は、道徳や善悪の問題としてではなく、ストレス・コントロールや感情マネジメントの問題として説明された。この枠組みによれば、いじめも殺人もストレス反応として、もしくは感情抑制の失敗として生起する(p.90)。
また、「人格の尊重という道徳的課題は個々人によるストレス・コントロールや感情マネジメント技法の習得という観点から捉えなおされていく」(ibid.)。

 生活上のあらゆる事柄が潜在的ストレッサーであるため、ストレスをマネジメントすることは、生きるということとほぼ同義である。生きている限り必ず遭遇する様々な葛藤や摩擦を外的刺激すなわちストレッサーとして一括してとらえ、各人の必要に合わせて技術的に対処する。子どもの問題行動の予防と自己形成は「何を為すべきか」「どうあるべきか」という道徳的判断よりも、「どうすればうまくいくか」に応える技術によって支えられている(p.92)。
 「心の危機」といわれる場合、当然「危機」以前にありえた〈健全なる〉こころの「聖化」が行われていることになる。著者によれば、それには

 「理性による抑圧を免れた情動や衝動、「自然な」感情の神格化」
 「感情や欲望や衝動を抑制し、規律する社会的人格に対する信仰」(pp.95-96)
という(或る意味で)矛盾する「二重の意味」が含まれているという。
 「心の危機」説では、子どもの問題行動を引き起こす「ストレス」の主要な源は現代社会そのものであるとされる(p.87、89、96)。なので、

 「心の教育」は物質的豊かさに感性の豊かさを対置させ、合理的な生活様式への過剰適応ではなく、抑制を解除した「ありのまま」の感情に気づくこと、それを十分に味わうことを推奨する。ネオ・ロマン主義的で神秘主義的な趣をもつそれは、家族の絆を強調し、牧歌的な戸外での遊びを懐かしみ、地域や故郷への愛着を訴え、自然を賛美する原始回帰と地続きである。「心」は、合理的生活様式によって排除されてきた非合理的な感情や人間存在の全体性として祀られるとともに、産業化や都市化によって駆逐された共同性や共同体的な道徳の象徴として聖化される(p.96)。
しかし、「「ありのまま」の感情に気づ」いて、「それを十分に味わう」ためには、科学=心理学を用いなければならない。「心」は計測可能な「ストレス」に還元され、様々な「尺度」によって「怒り、憂鬱、安穏、満足、身体反応などの下位概念へと分割され数値化され計測される」(ibid.)。ここで、「感情や欲望や衝動を抑制し、規律する社会的人格」が登場するわけだ。というわけで、

 道徳回帰と「心理学」の活用推進が渾然一体となった「心の教育」における自己形成の在り方は、超越的存在として個人に命令する道徳に照らし、克己するような自己鍛錬ではない。何を為すべきかという道徳的問いには沈黙し、原理と効用への問いにのみ応える心理学的技術を用いて心身状態をモニタリングし、外的環境に適合するように感情や行為を微調整し続けること、それらを通して対人関係や社会的状況をコントロールし、自尊心を高めることである。
 そして、自律的個人とは、普遍的な道徳や価値に従って自らの非合理性を自らの理性的意志の力によって律し、社会の道徳的理想を体現する個人というよりも、心理学的技法を用いて「管理されない心」を追い求める一方、それを人為的統制下に置いてマネジメントし、外的刺激に対する反応を訓練して、自らの心身を状況に適合するように成型し続ける「自律的個人」である(p.98)。
 著者も指摘しているように、ここでは「対人関係上の摩擦や社会構造上生み出される諸問題」はその「内実は問わずに一括してストレッサーとストレスとしてとらえ」(ibid.)られる。社会がどうのこうのということは意味ある問題とはならず、全て〈自己責任〉でストレスを処理して下さいということになる。ストレス処理に失敗した場合も勿論〈自己責任〉を取って貰いますということ。
 ところで、著者の取り上げている兵庫県の事例は、ちょっと洗練されすぎという感もなくはない。実際には、〈日の丸・君が代〉問題に見られるような、もっとあからさまな身体的強制を通じてのイデオロギー注入のようなことも進行しているわけだし、〈ニュー・エイジ〉的知識の導入といっても、二村真由美「あなたは「水」に答えを求めますか 疑似科学が蔓延する日本社会から見えるもの」(『世界』7月号)が指摘しているような、露骨かつ粗雑な〈お説教〉だったりしているわけだ。その例としては、例えば
 松村雪子「よい言葉と笑顔にはパワーがある!−水からの伝言−」
 小林義典「水からの伝言」
とか。また、批判的コメントとしては、例えば、

 天羽優子「波動」系水商売を斬るー量子力学の正しい理解のために」
      「「TOSSランド」(教育技術法則化運動)へのコメント」

を参照されたい。


 6月21日、『情況』7月号を買い求める。特集は、「迷走する教育改革」と「アレントマルクス」。特集もさることながら、安藤礼二氏と丸川哲史氏の対談「冷戦以後のこことよそ[下]−−パレスチナ柳田國男」が面白く、つい読みふけってしまう。