堀江敏幸「一度しかない反復」(『定形外郵便』*1、pp.18-20)
曰く、
「しかし、この青臭い思い込みは、キルケゴールの『反復』によってあっさり押しつぶされ、まったく別様に変貌してしまった」(ibid.)という。
反復とは、ごく単純に言って繰り返すことである。おなじ地点に立ち返っておなじ過程をもう一度、あるいは何度もたどり直してみること。いつしか身体がそれを覚え込んで、初めは硬いと思っていたものが柔らかく、柔らかいと感じていたものの内側がじつは硬かったことに気づき、抵抗感なく動作を再現できるようになる。そこまで来てようやく次の地平が見えてくる。
その種の、どこか徳目の匂いのする文言がしばしば教育の場で示されるのを耳にするたび、私は違和を感じつづけてきた。反復とは、おなじ事柄を寸分の狂いなく再現する行為ではなく、同一の素材からそのつどあたらしいなにかを見出し、退屈さを遠く逃れた創造的な発見に出会うことの連続ではないかと考えていたからである。それは若い日のひとつの夢であり、たどり着けないとわかっている理想の形態でもあった。(p.18)
反復を考えるうえで最も大きな役割を演じているのは、旧約聖書の「ヨブ記」*2である。苦悩を解決してくれるよう神の裁断を願うヨブが、まさにその神の言葉によって、贖罪なるものは自身の内にしかなく、決して外部に求めるものではないと悟る経緯を、青年が自分の体験として反復する。まさしく「問題は何か外部のものの反復ではなく、彼の自由の反復ということなのである」(桝田啓三郎訳)。過去における現実としてありえたものが、想像の力や贖罪によって、現在における現実に移行してくる。その発見の瞬間まで繰り返しを厭わないことが「反復」だとしたら、それは見失っていた自己の再発見ではなく、あたらしい自己の決定的な誕生、つまりたった一度しか起こりえない事件と見なしてもいいのではあるまいか。
繰り返しではなく、一回性の出来事である反復は、断絶をも含む。この矛盾を抱えた構造には、あらゆる精神活動の「根本的な自由」が深いところで絡んでいるという、美しくいびつな発見の喜びを、キルケゴールの《小説》はひとりの青年である私に与えてくれたのだ--、誰にも到達できない究極の自由の手前まで近づくだけは近づいてみたいとの、あの虚しい夢といっしょに。(pp.19-20)
