京都的

外舘和子*1「遊びと対話が育む京都の工芸」『毎日新聞』2022年7月10日


外舘さんは「女流陶芸展公募55周年を記念し」て、井上章一*2と対談したのだという。「確かに氏の著書からは一筋縄ではいかない独特のシニカルな批評精神が窺われる」が、「常識や通念を疑い、既存の権威に物申す氏の姿勢はいかにも「京都」ではないか」。
そして、(工藝における)「京都」礼賛;


女流陶芸だけではない。陶芸オブジェの世界を切り拓いた四耕会、続く走泥社など、陶磁史上を切り拓く新しい動向は何れも京都で誕生している。京都には代々続く陶家などの揺るぎない伝統が存在するが、それは一方で対抗勢力を生み出すエネルギーにもなるのだ。
注目すべきは京都の日とのコミュニケーション力である。スマホなどまだ普及しない頃から、京都を訪ねると、私がどの陶芸家と会い、帰りに本屋でどんな本を手に取ったかまでも1週間後には京都の多くの陶芸家が知っているという状況がよくあった。東京の画廊なら一人静かに作品を鑑賞して帰ることも多いが、京都で街の画廊に行けば必ずさまざまな工芸家と出会い、作品を批評し合うことが常である。狭い地域に作家や関係者が集中しているからだからこそだが、情報交換力は京都人の話し方にも由来するだろう。彼らの物言いを、中には皮肉っぽいと受け取る人もいるようだが、私はむしろ極めて高度なユーモアを感じる。そこには、ただ正論を振りかざすのではなく、自虐的なネタから入る、相手の意表を突くなど、豊饒な言葉の遊びがある。各々の意見が一方的な攻撃ではなく、文化や芸術を楽しむ術として作用するのである。京都では保守と革新が必ずしも絶縁せず、古いものと新しいものが巧みに共存しているということもうなずける。
加えて京言葉の優雅な抑揚と言い回しは、ジェンダーレス、エージレスな空気も生む。たとえ相手が男性であっても、近所の親切な(もしくは多少お節介な)オバチャンと話しているかのような親近感を覚えるのは、私だけであろうか。