そう来るか

荘子』「応帝王篇」の「渾沌」の話*1、仏教者(禅者)*2によってネタとして使われることも多い。
例えば、


横田南嶺「渾沌」https://www.engakuji.or.jp/blog/33911/


鈴木大拙を引きつつ、


渾沌をそのままに温存しておこうというのが、『荘子』の考えるところです。

しかし禅はそれに止まるのではありません。

大拙先生が「混沌をそのままにしてしかも十分のはたらき」と説かれているように、禅では、一度は、目や耳が外界のものばかりを追いかけるのをやめて、見聞覚知のはたらきを一点に集中させて、混沌そのものを体感し体得させておいて、さらに混沌を混沌のままに自在にはたらかせるという世界を求めているのであります。

これが「無分別の分別」なのであります。

分別することが、「渾沌」を殺してしまって、苦しみを生みます。

無分別の世界、「渾沌」をそのままにしておこうというのが荘子の考えです。

渾沌をそのままにしてしかも、この現実の差別の世界で自由自在にはたらいていこうというのが禅の立場なのであります。

まずは、目でものを見たり、耳できくことをやめて静かに坐って、渾沌の世界に浸って、その平等の世界を基盤にして、現実の問題に応対していくのであります。

また、


桐野祥陽「七つの穴」https://www.myoshinji.or.jp/houwa/archive/1349


曰く、


仏教では、眼耳鼻舌、それに付随して身、見聞覚知の感覚器官が備わっているからこそ起こる意、これら六つ(眼耳鼻舌身意)を合わせて「六根」といいます。先ほどの話にこれを当てはめると、「眼耳鼻舌」を持たない渾沌にこれらを与えたら、渾沌は死んでしまったということです。つまり、「眼耳鼻舌を持っていないものが急に眼耳鼻舌を持つと、生きるに耐えられない程の苦しみや悲しみを背負わなければならない」とも言えます。よって、生まれながらに六根を持っている我々人間は、最初から生きるに耐えられないほどの苦しみや悲しみの元を背負っているということになります。
 しかし、我々は渾沌のようにそれらがあるために死んだりはしません。生まれたその瞬間から何とかその六根を使いこなし、悲しみや苦しみを背負いながらも生きているのです。ですから、我々は無意識のうちに「死ぬほどの覚悟」で六根をもって生まれてきているとも考えられます。
さらに、

この物語では、儵と忽の二人によって「眼耳鼻舌」を付された渾沌は最後に死んでしまいます。しかし、私は「本当は死んではいない」と思っています。禅語に「大死一番絶後に甦る」とあるように「徹底的に死に切り、その後しっかりと甦った」のだと思います。つまり、六根を得たことで人の心の苦しみを知り一度は絶望し死に切った。しかし、人の苦しみを知ることで他人を思いやる心、すなわち慈悲心も生まれたのです。そしてその時、自ずと心の底から「全ての人々が健やかで幸せでありますように」という大慈大悲の願いが湧き上がり、絶後に甦ったのだと思います。これにはここまでの物語は書かれていませんが、仏教を信じ出家している者として、渾沌がそうあってほしいという私の切なる願いでもあります。
話をそう持ってゆくか!