何故対立しなければいけないのか

田島正樹*1「暴力について」http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/52138956.html


内田樹氏の「自分の正しさを雄弁に主張する知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性の方が、私は好きだ」という言説に対して、


しかし己れの愚かさを吟味することが、愚かな私にどうしてできるのだろうか? もしそれができるのなら、もはや私は、単に愚かではないことになろうし、自分の愚かさを吟味するだけで己れが愚かさを免れるようなものなら、皆たやすく愚かさを脱するであろうし、また愚かさを脱したと主張し合うだろう。かくて「自分の正しさを雄弁に主張する」ゲームは、一段高次化したゲーム、すなわち自分こそ「己れの愚かさを吟味することができる正しい知性だと雄弁に主張」しあうゲームになるだけである。
たしかに哲学的思考は〈思考についての思考〉といった〈メタ次元〉を目指すものであるので、内田氏の主張は哲学的にはより正統的な主張であるかも知れない。しかし、その主張が田島氏の突っ込むようなパラドクスに陥り、立往生してしまうというのもわかりやすいだろう。(可能性としては)無限に続く〈自己否定ゲーム〉は勿論不毛で、悲惨で、かつ滑稽であるわけだが、ここで注目しなければいけないのは田島氏が或る反転に言及していることだろう。「己れの愚かさを吟味することができる」から「正しい知性」であるということで、自己否定が自己肯定に反転し、摩り替わってしまうのだ。否定が強ければ強いほど、肯定もまた強くなる。果たしてそれでいいのか。内田氏が田島氏の突っ込みに応答するとしたら、「己れの愚かさを吟味することができる」と「正しい知性」との関係を切断してしまうべきなのだろう。そうすれば、田島氏の突っ込みは(少なくともここに限って言えば)空振りにならざるを得ない。
さらに田島氏はいう;

 あらゆる対立、あらゆる二項対立(敵―味方の対立)の背後に、隠れた共通前提を見出し、そこから敵対性自体を批判するという論法――これをもって何か高尚な弁証法であるかのように思いこんでいる御仁もいるが、こんな論法がまかり通るところでは、対立すること自体が愚劣で馬鹿げたことであり、諸悪の根源ですらあることになる。すると、堂々と対立を引き受け争う前に、早々と旗を降ろし、しっぽを巻く方が勝ちということになろう。つまり「負けるが勝ち」であり、自分の愚かさ自分の弱さを競い合い、あるいはその認識を競い合う、譲り合いのマナーが蔓延することになろう。
 そこから、「和をもって尊しとなす」世にも麗しい譲り合いの楽園が到来するであろうか? もちろんそんなことはない。かかる偽装された宥和のもとで隠蔽されるのは、不正な暴力支配であり、正当性なき既得権益の永続にすぎない。
 だからこそ、昔から左翼は、このような欺瞞的な融和の夢を引き裂く敵対的言説として存立してきたのである。左翼は、みずからゲームの超越論的主催者を装うことなく、不偏不党性を僭称する支配的言説に対する挑戦者として常に存在する。それは対立を隠蔽するのではなく、対立軸を鮮明にするのだ。
 しかし、それこそ暴力的ではないだろうか? ブッシュ氏が「あちら側か、こちら側か、どちら側に立つか、態度を決めよ」と迫ったのはまさしく暴力ではないのか?
今引いた箇所の前半の部分、「対立」の不在という見かけは「不正な暴力支配」の「隠蔽」であり、「正当性なき既得権益の永続」にほかならないということの(特に)政治的正しさは略自明のものだといっていいだろう。
ただ、「対立」の「隠れた共通前提」については別様にも考えられる。たしかに見つめ合っていがみ合う「対立」の当事者は相手を不倶戴天の敵だと思っているのだろう。しかし、「対立」の現場から一歩も二歩も身を退いて、「対立」を見物する立場に立てば、「共通前提」がなければ「対立」もできないということはすぐに見えてくる。「対立」の現場に存在するのは実は「対立」し合う当事者たちだけではない。そこには、「対立」の賭金が文字通りの現前という仕方或いは不在の現前という仕方で存在している。或る女を巡って争っていたり、或いは政権を巡って争っているのかも知れない。ここでは、当の女或いは政権が「対立」する双方にとって〈良きもの(good)〉として欲望の対象になっていなければ、「対立」そのものが生起できない。「対立」を産出するのは共通の欲望の対象(〈良きもの〉)であって、いがみ合い、時には殺し合いもする当事者たちはその〈良きもの〉によって、相互の憎しみが強ければ強いほど固く結び付けられてしまっているわけだ。また、武器についてもそう。国家間の脅しの道具として核兵器は何故機能するのか。それはオバマにしても金正日にしても誰にしても、核兵器は怖いという認識というか感覚を共有しているからだろう。だから、それを共有していない(することができない)者に対して核兵器を脅しの道具として使うことはできないだろう。英語が全然わからない相手に対していくらFuck you! と叫んだところで、その相手は罵倒されていると気づくことはできない。このように(ここではなくそこにある)「対立」を相対化することは簡単ではあるが、だからといって、それは「対立」を消去することにはならない。そうではなくて、それは「対立」を組み替えることで、新たな「対立」を創出することである。つまり、「共通前提」に囚われつつ「対立」し合っているあいつら/その「共通前提」から全く切れているとはいえないまでも少なくとも距離は保っている私という「対立」を産出し・引き受けることだといえる。
さて、「左翼」である。たしかに「左翼」は「対立を隠蔽するのではなく、対立軸を鮮明にする」。ただ、理念としての「左翼」ではなく今まで実在してきた(している)「左翼」に照らした場合、果たして「みずからゲームの超越論的主催者を装うこと」がなかった(ない)といえるのかどうか。「左翼」が寧ろ「ゲームの超越論的主催者」たらんとした(する)ということはないのだろうか。例えば、〈神の摂理〉の世俗ヴァージョンである〈科学的法則〉とかを楯にとって。言いたいのは、「左翼」の暴力性乃至抑圧性というのは「対立軸を鮮明にする」こと自体にあるのではなく、その際に絶対的な〈真理〉の所有者として振舞うことにあるのではないかということだ。また、現実における「対立軸を鮮明にする」一方で、理想的ユートピアとして「対立」が消去された世界を保持しているのかどうか。「対立軸を鮮明にする」ことについて言えば、それが「鮮明」であればあるほど、ほかにもあるかも知れない諸々の「対立軸」は(認知心理学的原則に従って)私たちの視野において、〈地〉として周辺化され、それを意識しづらくなるということはあるだろう。

およそ政治である限り、敵・味方の線引きを放棄することはできない。問題は、どこにどのように線を引くかである。
 線引きは暴力的であるばかりか、暴力そのものである。敵・味方の線引きをすることそれ自体が暴力なのであって、それ以後、敵・味方の間で取り交わされる戦いが暴力なのではない。我々が何らかの「武装闘争」を演じて見せるとしても、それはこの線引きを際立てるためのパフォーマティヴな儀式にすぎない。
これは興味深い論だと思う。ただ、これは「政治」の話に限ったことではなくなるだろう。何しろ凡そシステムとは自らと環境とを区別するものである(See 馬場靖雄ルーマンの社会理論』、pp.43-44)。或いは、理解(わかること)はそもそも分かる(分割)だということがある(坂本賢三『「分ける」こと「わかる」こと』)。つまり、私たちの生それ自体が「線を引く」ことによって存立可能になっているのであり、「敵・味方の線引き」というのはその特殊事例にすぎない。「線を引く」自体の暴力性或いは残酷性については、『荘子』「応帝王」の「渾沌」殺しの話を指示するだけで充分だろう(See also 中島隆博『『荘子』―鶏となって時を告げよ』*2、pp.1-2)。こうなると、私たちの生それ自体が暴力的であるという話になってしまうのだが、仮令そうではあっても、私たちの生を否定する謂れはない。ただ、「政治」において「敵・味方の線引き」は不可避だろうけど、それに拘るのはどうよとは思う。というか、カール・シュミットなんてとっとと殺してしまえよと思うのだ。
ルーマンの社会理論

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「分ける」こと「わかる」こと (講談社現代新書 (651))

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荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)

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『荘子』―鶏となって時を告げよ (書物誕生―あたらしい古典入門)

『荘子』―鶏となって時を告げよ (書物誕生―あたらしい古典入門)

長いけれど、最後までさくっと引用してしまおう;

「外人レスラー」の「反則」を耐え忍ぶ力道山が、警棒の嵐を素手で耐え忍ぶ安保ブントと樺美智子の写しであったとすれば、演技された場外乱闘をパフォーマンスに取り入れたそれ以後のプロレスは、ヘルメットとゲバ棒という象徴的暴力を取り入れた三派全学連に対応していた。このような象徴的パフォーマンスとしての暴力の上演を、不純なものとして退けた連合赤軍は、暴力の本質を理解せず武器使用に物象化したのだが、実際はそのため線引きとしての暴力に復讐された。つまり、暴力の本質は敵・味方の線引きそのものにあったのに、彼らはそれを無視したために、線引きそのものをコントロール不可能にしてしまい、彼らの内部に次々に「敵」をつくり出し、自壊していったのである。
 しからば、どのように敵・味方の線引きをすればよいのか?これが政治哲学の中心テーマのひとつとなるだろう。マルクス主義唯物論的な対立軸、すなわち階級闘争を基本と考えていた。もしそうであれば、固有に政治にゆだねられるものはほとんどないことになるだろう。敵・味方の線引きは、あらかじめ階級によって決まってしまっているとされるからであり、そこには政治的決断の余地は存在しない。
 しかし現実の政治では、どこに敵を設定し、どのような原則に基づいて敵・味方を定義(再定義)するかということこそが、ほぼその闘争の勝敗を決してしまうと言っても言い過ぎではない。ヴェトナム戦争で、民族解放戦線をソ連・中国の「共産勢力」の手先と見るならば、「自由陣営」の敵ということになろうが、民族の独立を求める民族主義者と見れば、アメリカ革命の伝統を受け継ぐものとして位置付けることができるだろう。誰が敵で誰が味方であるかは、初めから決まったものではない。それは、そののちに起こった中越戦争の例を見るだけでも明らかであろう。
 もちろん実際の線引きは、その時々の情勢に合わせて行われねばならない。それによって、ときには味方になった者たちが敵になり、またときにはその逆になることもある。しかし線引きの作業は単に理論的なものではなく、闘争的なもの、否、闘争そのものですらある。したがって、いかに敵を定義し、あるいは敵を描き出すか自体が、暴力的であらざるを得ないのである。ここでは、論争は単に「政策」の優劣を競い合うことにとどまることはできない。批判は相手の実存の深部に向けて鋭く突き刺さる暴力的腑分けであり、解体的暴力でなければならず、戦列への呼びかけでもあるから、敵は客観的に描写するのではなく、「恥ずべきもの」として徹底的にコケにしなければならない。つまり主張の虚偽性を示すだけでも、その非道徳性を示すだけでも十分ではない。醜悪で、卑小で、下劣でさえあるものとして描きださねばならないのである。主張内容は、人格的実存そのものの表現であるから、人格攻撃に踏み込まねばならないのだ。(これこそが最も重要なニーチェの政治哲学的含意である。)
 もちろんこのような「人格攻撃」は、相手からも人格攻撃を誘発するから、醜い泥試合になりがちだ。しかし、ののしり合いに終始する結果、それを見ている第三者、観客がうんざりしてしまっては失敗である。
 政治闘争は、何より観客の前で、観客に訴える仕方で闘われねばならないのだから、観客を喜ばせ、楽しませることができないようでは敗北なのだ。敵に対する敗北ではなく、敵対者同士双方の敗北である。それは政治というアリーナ自体の衰退を意味する。ここが芸の見せどころである。物まね、パロディー、あてつけ、イロニー、ユーモア、死んだふり、擬態、褒め殺し、はぐらかし、泣き落とし、などなど。ソクラテスのエイロネイア(空とぼけ)ももちろんこの一つ。
 かくて、巧みな戦士なら、相手を必ずしも叩き潰してしまわない方がいいということになるだろう。むしろ、相手を自分の引き立て役として利用する方が利口なのだ。相手を負かせることが十分明らかになった場合には、なるべく相手の力を大きく見せて、相手を引き立てるようにしておいた方が、自分の勝利もいっそう輝くというものである。ここから、プロレスのような出来過ぎたシナリオ、八百長すれすれの闘争が成立する必然性がある。しかしこれをもって、その政治闘争がまやかしのものであるとか、真剣勝負でないなどと考えてはならない。それは、ヘルメットとゲバ棒のようなチャチな「武装」を、フェイクだと断定した赤軍派と同じ轍を踏むものである。
「象徴的パフォーマンスとしての暴力の上演」としてのプロレスについては、森達也『悪役レスラーは笑う』*3を取り敢えずはマークしておく。また、プロレスを通した〈役割〉についての考察においてDarren Aronofskyの『レスラー』を参照することは必須だろう*4
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階級闘争」主義に対する批判として、李銀河老師*5の「少一点戻気、多一点和諧」をマークしておく*6
「政治闘争」と「観客」について。「政治闘争」という芝居においては役者と客という区別は曖昧にならざるを得ない。というか、「政治闘争」では「敵」を倒すこと以上に1人でも多くの観客を役者として舞台に上げることが重要であり、そのことが「敵」を倒すことの条件となる。閉じられた議会ではなくオープンな街頭の方が重要な政治の舞台に屡々なるのは、人民の見物だけでなくて俺たちも芝居をやりたいという欲望の表れでもあろう。
「巧みな戦士なら、相手を必ずしも叩き潰してしまわない方がいいということになるだろう」。上でも述べたように、「対立」する者たちは共通する〈良きもの〉によってしっかりと結び付けられている。また、万物の意味は対立項との示差的な境位としてしか定義できないという言語学的/記号学的な事実を想起すべきだろう。左翼がいなければ右翼は、女がいなければ男は意味をなさなくなってしまうのだ。なお、多くの(特にアーカイックな)社会は中心的とされる諸「対立」を自らの構成原理として組み込んでおり、それらの「対立」は祝祭的な仕方で再確認され続けている(See eg. 山口昌男『学問の春』*7第五講「トーテムから原始的二元論へ」、第六講「季節の祭――二つに分かれて競う」、第八講「ポトラッチ1――二つに分かれて、繋がる世界」)。現代日本でも毎年NHKが『紅白歌合戦』をやっているわけだし。また、「人格攻撃」についても「冗談関係(joking relationship)」*8が制度化されている社会は多々ある。
新書479学問の春 (平凡社新書)

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さて、そもそも何故「対立」は存在しなければならないのか。上でも幾つかのその根拠らしきものについて漫談してきたとは思うのだが、さらに(政治的に)重要だと思う論点を2つ追加する。
先ず、「対立」はコミュニケーションの可能性をつくり出す。「対立」がなかったとすると、私たちは語り合う必要はない。何しろみんな利害が一致している、或いは違ってはいてもそれは調和しているということになるので、仮令本当は「正当性なき既得権益の永続」だとしても議論すべきトピックも浮かび上がってこない。つまり、「政治」の基礎であり中心でもある、共通のトピックを巡って議論するということが成立しない。「政治」は不在になるといってもいいだろう。敢えて「対立」をつくり、「線引き」をすることによって、「偽装された宥和」には亀裂が走り、そこには議論すなわち「政治」が生起するスペースが生まれる(矢野久美子『ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所』、特に第3章「「政治」と《あいだ》」を参照のこと)。さらに、それは世界の存立に関わる。そもそも諸々のものごと、その総体としての世界が客観的に存在するということは如何にして可能なのか。もしこの世に「対立」というものがなければ、私たちはそれぞれ身体は違っていたとしても究極的には1つの視線或いは〈主観性〉ということになってしまうだろう。万物が単一の視線或いは〈主観性〉によって眺められることになる。私の主観性にとってのみリアルであることを妄想というが、私たちみんなが単一の単一の視線或いは〈主観性〉になってしまうとすれば、そこでは妄想と(客観的)事実は決定不能になってしまう。逆に全く対立するような無数の視線によって貫かれることによって、ものごとは客観的に存在するようになる。というか、その時、私はそれが自分の主観性に還元できないことを覚るのである。
ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所

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どのように「線引き」をするか。ひとついえることは、(『他の岬』のデリダに倣って言えば)利き手ではない手で引け! ということになるか。
他の岬―ヨーロッパと民主主義

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*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060830/1156904686 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060905/1157462920 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061010/1160499009 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061021/1161451763 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070807/1186490802 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070829/1188385230 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080227/1204077862 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080502/1209698659 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100206/1265435465 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101021/1287629417 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101221/1292961164 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110217/1297882488 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110407/1302191011

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110122/1295645093 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110124/1295838608

*3:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070531/1180617700

*4:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110208/1297180408 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110526/1306433117

*5:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060310/1141964279 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060316/1142479391 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060429/1146276804 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060516/1147751877 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060908/1157716174 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061013/1160766389 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061114/1163521045 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061120/1163987352 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061120/1163987352 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070314/1173841539 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070315/1173922169 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070315/1173923865 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080111/1199985959 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080314/1205475516 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080520/1211251523 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080818/1219033606 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090514/1242326486 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090525/1243248127 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090712/1247414329 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090713/1247456270 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090807/1249614452 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091130/1259555364 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091208/1260239153 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091214/1260764583 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100205/1265305758 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100317/1268799406 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100925/1285415369 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101220/1292871797 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101223/1293126474 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110526/1306380439 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110530/1306727085

*6:http://blog.sina.com.cn/s/blog_473d533601017kyi.html

*7:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110219/1298093110

*8:See 『学問の春』、pp.210-211 Also “Joking Relationships around the World” http://library.thinkquest.org/06aug/02308/pages/aworld.htm Marc “Of joking relationships” http://marctyrrell.com/2008/06/21/of-joking-relationships/