綜合の果て

『デイヴィッド・ホックニー展』*1東京都現代美術館*2)を観た。「デイヴィッド・ホックニー*3の日本では27年ぶりとなる大型個展」だという。27年前のホックニー展は観ておらず、最後にホックニーをまとまって観た記憶はそれよりも数年前の1989年である。
デイヴィッド・ホックニーというと、青空+芝生+プール+美少年という1960年代のイメージをいまだに思い浮かべる人も少なくないけれど、そういう人にとっては、この個展は期待を裏切るものになるかも知れない。その時期の作品はほんの少ししか出展されていないのだから。1989年に観た1980年代のホックニーはフォトコラージュで、私は勝手に〈キュービズム時代〉と呼んでいた*4キュービズム的表現の目的は、例えば時間を平面上に共時的に表現するためだというようなことが言われている。しかし、その頃思ったのは、それもあるんだけれど、私たちの視覚的経験は(能動的であれ受動的であれ)無数の綜合の効果として与えられているものだということと関係があるのではないかということだ。個々の音の綜合(和音)として現実の音楽が与えられているように。それ以来、ホックニーという人は私たちの視覚的経験の存立を問う人だという印象を持ち続けている。今回の個展において中心となるのは、21世紀になってからの大作の風景画なのだけど、視覚的経験の存立への問いという印象は変わらなかった。2007年の「ウォーター近郊の大きな木々またはポスト写真時代の戸外制作」は横幅12米にも及ぶ大作で、50枚のカンヴァスが組み合わさっている。これは全体と部分との往還を介して合成=構成された作品であって、観る側もその往還を反復せざるを得ない。また、移動する9台のカメラで同じ場所を撮った動画を組み合わせた「冬 2010」「春 2011」「夏 2011」「秋 2011」の四部作。観る者は、9つのパネルを綜合して1つの風景を構成し、さらに4つの作品の印象(記憶)を合成し、(時間的経過を含んだ)同じ場所という了解を構成する。「春の到来、イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年」はi-Padで即興的に描かれた数十枚の風景画と、時々刻々の個別の風景たちの記憶に基づいて描かれた巨大な油絵からなる。ここでも、同様の問題系が反復されている。さらに、最新作となる亜細亜の絵巻物にインスパイアされたかのような「ノルマンディの1年」。横幅数十米あるこの作品は観る者が作品を一望することは不可能である。絵の周りを歩きつつ、前後の記憶を綜合しつつ全体の印象を構成せざるを得ない。


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安原真広「デイヴィッド・ホックニーが現代美術の最高峰と言われる理由とは。東京都現代美術館で「見る」ことを探求する」https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/27525