http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070507/1178556871について、幾つかご意見を賜りましたが、「めざす」問題については多分「学習指導要領に示されている学年別配当漢字」というのが関係あるのかも知れません。「学年別配当漢字」については、数十年前から丸谷才一先生が批判している。
ところで、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070508/1178580987でもこの調査が採り上げられており、『毎日』以外の新聞記事が参照されている。それによると、この調査を行った「日本教育技術学会」の会長は「向山洋一」という人であること。向山洋一に関しては調べれば、色々とアレなことが出てくるのではと思う。
また、『日経』の記事では「テレビを見る時間が短い子どもの方が正答率が高かった」といような「生活習慣」との関係が言及されているとのこと。多分、「生活習慣」というのは教師の「指導」などよりも影響が強いことは事実だろう。だからといって、子どもをTVから遠ざけろという話にはならない。TVの内容が問題なのだろう。相撲が好きな子どもがそうでない子どもよりも、或いは時代劇が好きな子どもがそうでない子どもよりも漢字を知っているというのは大いにありそうである。また、鉄ちゃんは地名(駅名)には強いとか。これはたんに、子どもだろうが大人だろうが、知的好奇心に応じて、語彙を増やしていくということにすぎない。極論を言えば、子どもに漢字を覚えさせるには、知的好奇心を刺戟すればよく、教師の「指導」などは余計なことなのかも知れない。大体、「指導」によって、筆順がどうたらこうたらとか、撥ねるとか撥ねないとかをぐちゃぐちゃ言われて、それがトラウマになって、漢字が嫌いになったという人は多いのではないか。
ところで、「話す」/「放す」問題でもそうだし、「骨折」問題*1でもそうなのだが、「教育」にとっては間違いというのは矯正され・消滅されるべきものとして現れてくるのだろうか。勿論、それが絶対に必要だということもあろう。特に、初等教育とか初級の語学では。しかし、他方でそれが自明性の穴を穿ち、新たな知の切片を開示する契機であることを忘れてはならない。さて、美術評論家の東野芳明の講演をかなり昔に聞いたことを思い出した。話の内容は、マルセル・デュシャンのこと、デヴィッド・ホックニーのこと、それから当時最新流行だった〈ニュー・ペインティング〉の批判など。そこで、東野氏は自分の娘が幼かった頃に、パパ、見るとミルクは同じなの?と訊かれたという。この質問にどう答えるか。
「指書き」というのは、多くの人が字を忘れてしまったときに行う、またロラン・バルト先生も吃驚の日本が「記号の帝国」である所以のものだが、それを教室で集団的に行うというのはさすがにちょっとキモい。
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