知らなかった計画

習志野市社会教育課「幻の習志野鉄道構想(大久保の鉄道話)」https://www.city.narashino.lg.jp/citysales/shizen/walk/sansaku/h14/sansaku056.html


旧陸軍鉄道第二連隊の演習線(千葉線*1の戦後。


戦後の軍用鉄道は国鉄の試用線とされていて、レールは残っていたものの、遊休地同然でした。昭和30年12月15号「千葉新聞」に「習志野の旧軍用鉄道を活用 地元が大蔵省、千鉄と、交渉」なる見出しが登場します。京葉工業地域の造成に伴い発展が予想されるためにそれに備えようという運動が大久保の住民の間ですすめられたのです。しかし、住民の願いはかなわず、現在その姿はありません。
その後昭和35年自衛隊に101鉄道建設隊が生まれました。そこでは、鉄道の敷設、修理、運転など教育訓練がはじまりました。そのため、旧軍から国鉄に移譲された津田沼-大久保間を演習線としていました。その後、すでに廃線となっていた大久保-高津間を建設したのです。下の地図は津田沼演習場の地図です。昭和41年に101建設隊が解散されるまで、レールは使用されていました。
この計画は知らなかった。自衛隊の「101鉄道建設隊」は1966年に解散したということだけど、蒸気機関車が走っていたのを見た記憶はある。1970年頃まではレールや鉄橋がまだ残っていて、近隣の子どもの遊び場になっていた。
この鉄道の終点と目されていたのは「千葉」ではなく、八千代市の「高津」*2だった。高津は自衛隊の演習場の北端、八千代市船橋市習志野市の境界地帯で、現在でも極端に交通の便が悪い場所だけど*3、もし鉄道で津田沼に直結していれば、その後の様子はかなり変わっていただろう。高津には大きな団地があるが*4、完成は1972年であり*5、「習志野鉄道」が騒がれていた1955年頃は「高津団地」の計画も生まれていなかったのでは?