花咲の過去

習志野市社会教育課「習志野の地名5 新しい地名―花咲・泉町・新栄―」https://www.city.narashino.lg.jp/citysales/shizen/walk/sansaku/h19/sansaku102.html


曰く、


昭和29年(1954)、津田沼町と旧幕張町(千葉市)の一部が合併して習志野市が誕生しましたが、この時、旧幕張町に属していた蟹(かに)ヶ沢・新田台・鳥ヶ崎という地区がまとまって、花咲という町名になりました。なぜ花咲という名前になったのかという経緯はわかっていません。花が咲くように美しい町になって欲しいという願いが込められているのかもしれません。

 ところでこの花咲は、江戸時代前期に開発された新田である屋敷台新田の一部です。屋敷台新田は馬加(まくわり)村(現千葉市花見川区)の一部でしたが、貞享4年(1687)に描かれた村絵図(国立国会図書館蔵)には「屋敷村絵図」と書かれています。本村からの独立意識が高かったのでしょうか。屋敷という名前の由来は不明ですが、幕張の古記録や古地図には「池之端花屋敷」「古屋敷」という地名が記されています。屋敷と何か関係があるのかもしれません。

習志野市の花咲*1がそもそも「幕張」の一部であったことは知っていたが、元々、


蟹ヶ沢
新田台
鳥ヶ崎


の3つに分かれていたということは知らなかった(現在は1丁目と2丁目に分かれている)。
花咲については、50年前の1970年代初頭以降のことしか知らないのだけど、花咲の印象のひとつは農村の痕跡が全く感じられないということだ。習志野市は(埋立地を除いて)市内の何処へ行っても、農村的な風景が21世紀の現在に至っても残っている。しかし、花咲は50年前から農村的な感じが全くしなかった。田畑も全くなかったし、旧家といわれるような住居もなかった(隣接する「屋敷」には今も濃厚に残っている。))。
農村の痕跡が全くないということだけでなく、50年前から花咲は純化された住宅地だった。花咲には、神社や寺のような宗教施設もなく、学校や病院のような公共施設も、スーパーや商店街のような商業施設もない。
なお、50年前、花咲と(現在の)幕張本郷駅の間には、無人の荒地が拡がっていた。そこが習志野市花咲なのか、それとも千葉市なのかは、当時はわからなかった。その一帯が本格的に開発されるのは、幕張本郷駅開業の数年後、昭和も押し詰まってからだったと思う。