新京成の起源

sumita-m.hatenadiary.com


id:bluenote1969


私は京成電鉄の沿線の住人でして、子供の頃から電車内の路線図等で「新京成線」の文字を見慣れておりますので何とも思いませんが、事情をご存知ない方々の中には、東京にも成田にも行かない、津田沼と松戸を結ぶ鉄道が、なぜ「新京成電鉄」という商号を使っているのか、疑問に思われる方がいらしても不思議ではありませんね。戦後、旧鉄道連隊の演習線の払い下げを巡って京成と西武が争った際に、勝利した京成電鉄が、自社の関連会社であることをアピールする為に、「下総電鉄」という名称だった運営会社を「新京成電鉄」と改称した…ということのようですが。

取り敢えずWikipediaをコピペしておきます;

本路線*1大半の区間は旧日本陸軍鉄道連隊が演習用に敷設した軌道敷(鉄道連隊演習線松戸線)であり、第二次世界大戦後の京成電鉄への払い下げを経て民間利用されているものである。

第二次世界大戦での日本の降伏後、鉄道連隊は解散した。鉄道連隊演習線のレールは西武鉄道に払い下げられたが、軌道敷はそのまま残されていたことから、西武鉄道京成電鉄は早くからこれに着目していた。鉄道連隊の旧軍人を入社させた両社は連合国軍最高司令官総司令部GHQ)に鉄道敷設のための使用許可を働きかけた。最終的に陳情合戦は営業基盤を千葉県内に持つ京成電鉄が制し、1946年3月に軌道敷使用が認可された(正式な払下げは1955年)。この背景には、京成電鉄に入社した旧鉄道連隊の椎名三郎陸軍大尉とその元上官だった鎌田銓一陸軍少将の存在が大きかったといわれている。鎌田少将は太平洋戦争以前にアメリカの陸軍士官学校に留学経験があり、その際に上級生にダグラス・マッカーサー元帥がいたことから戦後はGHQの首席接待委員となり、いわゆる鎌田機関を組織。「鎌田を通さなければマッカーサーには会えない」と言われるほどの影響力を持っていたという。

京成電鉄は同年10月に子会社として新京成電鉄を設立した。1947年1月に開始された工事は、新たな資材の入手が困難であったため、県外に足を延ばして規格の異なる古資材をかき集めて行われた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%AC%E6%88%90%E9%9B%BB%E9%89%84%E6%96%B0%E4%BA%AC%E6%88%90%E7%B7%9A

私が昔から疑問に思っていたのは、何故違う法人にしたのかということでした。
ところで、新京成津田沼と松戸を繋いでしまったわけですが、それにしても松戸から津田沼まで乗り続けるという人はあまりいないでしょう。でも、全然いないわけじゃない。松戸から津田沼まで乗り続けた、まさに新京成な人、ということで真っ先に想起するのは、谷沢健一小保方晴子の2人ですね*2。谷沢さんは松戸から新京成で、当時津田沼駅近くにあった習志野高校に通っていた*3。小保方さんは津田沼京成本線に乗り換えて、習志野市泉町の東邦大学付属東邦高校に通っていた。ふたりとも、新京成がなければ、その後の人生はかなり変わっていた可能性がある。

*1:新京成線

*2:See https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20141019/1413647417 どちらも大学は早稲田という共通点もある。

*3:習志野高校の敷地には現在習志野市役所が建っている。