『平家物語』の役割

山田昭全『文覚』*1の「はしがき」に曰く、


ところで、源平合戦という世紀の大動乱を語り伝える『平家物語』に文覚が華々しく登場してくることはここに言うまでもない。彼は実際にこの動乱の仕掛人の一人だったから、物語中に登場するのは至極当然だったわけだが、これによってまったく無名だった一介の真言僧が一躍時代の英雄ともてはやされることになった。
しかしながら、『平家物語』に描かれた文覚は実在の文覚とはかなりかけ離れた人物像になっている。そもそも文覚は恋敵を殺そうとして誤って恋人を殺害したことを悔いて出家した。修行に出た彼は夏季の修行中藪の中で蚊や虻に指されても平気で昼寝したり、厳寒季に熊野の滝に打たれる荒行の最中、失神して滝壺に落ちたが不動明王の使者に救われたりする。さらに謫地に趣く船中で竜神を叱咤して暴風雨を静めたり、義朝のにせ髑髏を見せて頼朝に挙兵をうながしたりする。『平家物語』はそのような文学的装飾や虚構によって文覚を強引に中世的神話の世界に引き入れてしまった。
こころみに『平家物語』以外の史料に拠って文覚の行動を追って行くと、彼は物語に言うようなおどろおどろしい振舞いを見せてはいない。後白河院に寄付をねだったり、取得した荘園の既存権益と衝突したようなときには相手に罵詈雑言をあびせ、激しくあらがうところがあったことはたしかだが、しかしそうした行動の背後には何としても空海の遺跡を復興して、その鎮護国家の理想を実現しようとする、宗教的使命感のようなものが強く働いていたように思われる。(pp.6-7)
但し、例えば、

文覚は俗名を遠藤盛遠といい、保延五年(一一三九)の生まれと推定される。文覚の出自を示す良質の史料は見あたらない。『続群書類従』(第六輯下)の「遠藤系図」と『平家物語』の記述などを手がかりにして推測するほかはない。(「第一 遠藤盛遠」、p.1)
さて、文覚出家の経緯を巡って;

盛遠がいつどんな経緯で出家したか、たしかなところはわからない。『平家物語』諸本の中には盛遠が誤って恋する女性を殺害したことが動機となって出家したとしている本もあるが、これは中国の説話を種とした作り話と思われる。延慶本は盛遠がそうした恋愛事件をおこしたのは十八歳のときだったとして十八歳出家説をとる。これも確証はまったくない。(「第二 盛遠の出家」、p.12)
「中国の説話」とは具体的にどんな話なのか?