一柳慧

朝日新聞』の記事;


作曲家の一柳慧さん死去 前衛芸術の旗手 ジョン・ケージらとも交流
10/8(土) 12:51配信



朝日新聞デジタル

 作曲家のジョン・ケージら世界最先端の前衛芸術家たちと交流し、ジャンルの垣根を超えた創作活動とパフォーマンスで世界の現代音楽界の先頭に立ち続けた作曲家でピアニスト、神奈川芸術文化財団芸術総監督の一柳慧(いちやなぎ・とし)さん*1が7日死去した。89歳だった。葬儀は近親者で営む。後日、お別れの会を開く予定。喪主は長男慶さん。

 神戸市生まれ。6歳でピアノを始め、戦後、本格的にピアノを原智恵子、作曲を平尾貴四男と池内友次郎に師事。1949~51年、日本音楽コンクールで3年連続入賞し、作曲家としての道を歩むべく米国に留学する。

 ミネソタ大学を経てニューヨークのジュリアード音楽院に学び、システムに縛られた西洋音楽に懐疑的だったケージの影響で、「音楽は時間ではなく空間の芸術」と、自身で自由にシステムを構築できる図形楽譜に傾倒する一方、画家のジャスパー・ジョーンズ、モダンダンスのマース・カニングハム、最初の妻となった芸術家のオノ・ヨーコ、建築家の黒川紀章、劇作家の寺山修司らとジャンルの壁を越えて親交を深めた。

 61年に帰国し、最先端の現代音楽を積極的に日本に紹介。70年代には演奏行為の可能性を極限まで突き詰めた超難曲「ピアノ・メディア」「タイム・シークエンス」を発表。日本の連歌に想を得た交響曲「ベルリン連詩」、杉原千畝が主人公のオペラ「愛の白夜」(辻井喬台本)など社会と切り結ぶ題材の作品も数多く手がけた。

 晩年まで大規模なオーケストラ作品を手がけ、若手のプロデュースにも精力を傾けた。15年には現代音楽界の活性化を狙い、作曲家、演奏家、評論家らを広く対象とする「一柳慧コンテンポラリー賞」を創設した。詩人を中心に、言葉を礎にする表現者に贈られる大岡信賞の第1回選考委員も務めた。尾高賞、毎日芸術賞紫綬褒章サントリー音楽賞など受賞。08年に文化功労者、17年に日本芸術院賞・恩賜賞。18年文化勲章。(編集委員吉田純子


横尾忠則さん「僕自身が変化した時代をともに過ごした人」

 ■美術家の横尾忠則さんの話

 1967年、僕が最初にニューヨークに行ったとき、4カ月間、ほぼ毎日朝から晩までいっしょに過ごしました。サイケデリック・ムーブメントの時代で、僕はロックを聞きに行ったり、サイケ文化が味わえる場所を訪ねたりしたのですが、一柳さんにも新しいポップカルチャー体験を共有してほしくて、半ば強引に連れ回したんです。一柳さんも素直に受け入れてくれて、通じ合う友人になりました。2人ともサイケのデザインのネクタイを100本ぐらいずつ買ってしまい、「ネクタイ屋でもやるのか」と笑い合いました。

 帰国後、一柳さんは「オペラ横尾忠則を歌う」を発表しました。内田裕也さんのバンドが加わったり、高倉健さんの歌があったり、民謡などの懐かしい音も取り込まれていました。あのニューヨークでの体験と現代音楽を融合させたような印象でした。

 ただその後、一柳さんはこうした音楽からは遠ざかり、僕との交流も残念ながら途絶えてしまいました。数年前に久しぶりに対談したときには、「若い人たちと新しいことをやっている」と機嫌もよく元気そうだったのに。僕自身が変化した時代をともに過ごした人だったんです。寂しいなあ。(聞き手 編集委員・大西若人)


池辺晋一郎「畏敬の念しかありません」

 ■作曲家の池辺晋一郎さんの話 

 驚きました。万年青年のまま100歳までいくのだろうと思っていたので。彼の青春は戦後とともに始まりました。米国で最先端の前衛芸術の洗礼を浴び、新しいメディアやテクノロジーを全て創作の種とした。その精神の若さを、芸術家として、そしてプロデューサーとして晩年まで持ち続けていた。若い世代のことも「後輩」じゃなく、本気で「仲間」だと思っていた。交響曲も11曲書かれたんだけど、僕がいま11曲目を作曲中なので「競争だぞ」って叱咤(しった)された。10歳も年上なのに。人間としても音楽家としても、畏敬(いけい)の念しかありません。(聞き手 編集委員吉田純子
https://news.yahoo.co.jp/articles/02452276c7aad1e9cb2317d4496f86a14cf845a7

さて、コアな現代音楽ファン以外の人がアヴァンギャルドな現代音楽に触れる機会のひとつとして、映画などの映像作品がある。一柳も複数の映画音楽を手掛けているのだけど、横山博人の『純』のスコアを書いていることに気づいた。コミュ障男性の実存的表出としての「痴漢」を描いた作品。脚本は倉本聰Wikipediaを見たら、小藤田千栄子の評が紹介されていた*2

小藤田千栄子は「痴漢が主人公の孤独感の表出や、彼なりのコミュニケーションかも知れないが、妙に迫力を持っているのが女にとっては実に不愉快な、なんともイヤな映画である。それも被害者が誰一人としてその場で大声を上げたりしないのが余計に不愉快である。これは明らかに男の側の論理であり、女は誰一人として痴漢などには会いたくないのだということへの考察が全く欠けている。女の側の自由を犯してまで、このような行為をテーマに持って来たことに疑問を感じる」などと評している。
現在から見れば、特にフェミニストでなくとも当たり前の意見のように見えるけれど、当時(1980年代初頭)では、こういう視点はあまり可視化されていなかったのでは?この小藤田さんは特にミュージカルに詳しい人だったけれど、2018年に他界していたことを今知った。

小藤田千栄子さん死去
2018年9月21日 5時00分



 小藤田千栄子さん(ことうだ・ちえこ=映画・演劇評論家)11日、大動脈解離で死去、79歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は弟実(みのる)さん。

 早大から映画雑誌「キネマ旬報」編集部を経てフリーに。主にミュージカルの劇評やエッセーを執筆した。著書に「ミュージカル・コレクション」など。
https://www.asahi.com/articles/DA3S13688520.html