『京都新聞』の記事;
また、『朝日新聞』;
岡田節人氏死去 京大名誉教授、発生生物学の第一人者
発生生物学の第一人者で、岡崎国立共同研究機構長、JT生命誌研究館長などを務めた京都大名誉教授の岡田節人(おかだ・ときんど)氏が、17日午前7時46分、肺炎のため、京都市北区の病院で死去した。89歳。兵庫県出身。葬儀・告別式は近親者で営む。喪主は京大人文科学研究所教授の長男暁生(あけお)氏。
京大理学部卒。京大理学部助教授などを経て1967年から教授。英エディンバラ動物遺伝学研究所、米カーネギー発生学研究所などに留学し、発生生物学を最前線で研究した。京大では日本初の生物物理学科設立に尽くし、84年からは国立基礎生物学研究所長を兼任。85年に京大を退官して89年から3年間、基礎生物学研究所の統括組織である岡崎国立共同研究機構長を務めた。また国際発生生物学会総裁をはじめ、国際生物科学連合副総裁に日本人で初めて選ばれるなど世界の生命科学のかじ取り役として活躍した。93年から2002年までJT生命誌研究館(大阪府高槻市)の館長を務めた。
専門は発生生物学。一つの受精卵から分裂した細胞が、なぜ神経や筋肉など多種多様に分化し、どのように生物を形づくるのかという解明に挑み、多くの業績を挙げた。成熟した細胞が別の種類に変わる能力もあることを「細胞の柔軟性」と表現し、iPS細胞(人工多能性幹細胞)の開発につながる概念を提唱した。日本動物学会賞や内藤記念科学賞、京都新聞文化賞のほか、89年には生物学界で最も権威のあるハリソン賞を日本人として初めて受賞した。07年文化勲章。
研究に打ち込む一方、最先端の生命科学を柔らかな文章で解説した一般向きの科学書や新聞連載を数多く手がけた。音楽やファッションにも詳しく、京都市音楽芸術文化振興財団理事長としてクラシック音楽の振興にも務めた。
1991年から2011年まで本紙「天眼」を執筆した。
【 2017年01月17日 22時40分 】
http://kyoto-np.co.jp/politics/article/20170117000137
岡田氏*1は一般人向けの著書も多くものしていたようだが、読んだ記憶のあるのは、岩波新書から出ていた『試験管のなかの生命』と『動物の体はどのようにしてできるか』くらいか。
京大名誉教授・岡田節人さん死去 発生生物学の第一人者2017年1月17日14時24分
iPS細胞などの幹細胞や再生医療の源流となる研究を手がけた発生生物学の第一人者で京都大名誉教授の岡田節人(おかだ・ときんど)さんが、17日、肺炎で死去した。89歳だった。葬儀は親族のみで行う。喪主は長男暁生(あけお)さん。
兵庫県伊丹市出身。50年に京大理学部を卒業後、卵から動物の体が形作られる過程を解き明かす発生学の道に進み、欧米への留学などを経て、67年に京大教授に就任。基礎生物学研究所長、JT生命誌研究館長などを歴任した。89年に発生生物学で最も権威のあるハリソン賞を受賞し、07年には文化勲章を受けた。
岡田さんは、役割が決まった細胞でも別の種類に変わりうると考えて実験に着手。ニワトリの目の色素細胞を培養して、レンズ(水晶体)に変わることを示し、世界的な業績を挙げた。
こうした細胞の「柔軟性」が発生や体の再生で主役を担うことをつかみ、発生学に細胞という概念を先駆けて取り入れ、今の幹細胞生物学や再生医療につながる研究を切り開いた。
「岡田節人ぶし」と呼ばれたユニークな語り口で学生の人気を集め、細胞の接着分子カドヘリンを発見した理化学研究所の竹市雅俊氏ら多くの研究者を育てた。芸術にも造詣(ぞうけい)が深く、雑誌や新聞でクラシック音楽の評論も手がけた。長男暁生さんは音楽学者で京大教授。
http://www.asahi.com/articles/ASK156HWVK15PLBJ001.html
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動物の体はどのようにしてできるか―発生生物学入門 (岩波新書)
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ソ連のイデオロギーに基づく社会主義の体制のもとで、獲得形質が遺伝すると唱え、力づくで科学を動かしたのがルイセンコだった。メンデルの法則はこのイデオロギーのもとでは認可されないというのだから、これが近々半世紀前のことだったのが、まったく信じられない。日本の大学でも、遺伝学から植物生理学まで、ルイセンコ派の教官が数多くはないにしろ存在していて、彼らはいわゆる若者たちにもてていた。京大の徳田御稔(みとし)の書いた『2つの遺伝学』という本はバイブル並みにもてはやされた。後年に分子生物学で名をなす山岸秀夫などは、若いころルイセンコに惚れこみ、当時社会的には花形だった工学部をやめて植物学に転科して実験したほどだ。しかし、直ちにこのルイセンコ噺(ばなし)のいかがわしさに気付いてしまったのはさすがであった。
「根性」のある「物理学者」って誰?
周囲では、あれほどルイセンコ、ルイセンコと言っていた人たちも、間違っていたと明言もせず、いつの間にかゾローッと新しい生物学のほうへ変わっていった。世の中とはそんなものかもしれない。60年代に至っても、生きものの見方としては唯物弁証法にのっとったルイセンコ風の考えが正しいと書いていた物理学者が少しはいたが、生物学者にはそんな根性はなかった。京大の農学部には、木原均(1893 〜1986 )という遺伝学の大権威がいたおかげもあってルイセンコによる汚染も大したことはなく、そのころから少なからぬ数の若者たちはDNA に関心を示していき、日本でのルイセンコの時代は終わった。