高須賀*1「なんでパチンコに人が群がるのかがわかって、いろいろと切なくなってしまった」https://blog.tinect.jp/?p=72544
ナターシャ・ダウ・シュール『デザインされたギャンブル依存症』という本の紹介。
それによると、スロットマシンに嵌っている人は「ゾーンに入る」ために行っている。
「「ゾーン状態」に入るには? コツを理解してハイパフォーマーになろう」という記事によれば、
高須賀氏の文章に戻る。
ゾーンとは、集中力が非常に高まり、周りの景色や音などが意識の外に排除され、自分の感覚だけが研ぎ澄まされ、活動に没頭できる特殊な意識状態を指します。その際には、取り組んでいることに没頭し、驚異的な集中力で予想以上の結果を出すことが可能になると考えられます。
https://news.mynavi.jp/article/20200917-1258236/
かつてはギャンブルというと、一点に大きく賭けてダイスを振ったり、当たれと念じてカードをめくったりといったハラハラ・ドキドキを楽しむものだった。このようなアドレナリンがどっと駆け巡る血湧き肉躍るようなホットなもの。
それが多くの人が思うカジノにおけるギャンブルの像ではないだろうか?
ところが、現代のギャンブルではそういう熱狂的なものは既に時代遅れなモノだそうだ。
淡々と目の前のマシンに没頭し、ひたすら回転を続けるリールが生み出すなめらかな無感覚状態に没頭し、ただひたすらクールに”ゾーン”に入り続けるもの。これが現代カジノのメインストリームだというのである。
そういえば、加藤秀俊氏は『パチンコと日本人』*2の中で、あのパチンコのちんちんじゃらじゃらという騒音は滝行に通じるところがあると述べていた。もう40年近く前のこと。さて、私見によれば、これは「熱狂的な」ギャンブルが「時代遅れ」だとか、パチンコが「最先端」だとかといった話ではないような気がする。パチンコやスロットマシンのような〈マシン系〉(?)ギャンブルにおける実存的経験の特性なのではないかと思ったのだ。「ギャンブル依存症」という言葉もそうなのだけど、競馬もパチンコも花札もルーレットも十把一絡げに「ギャンブル」として論じる問いというのはおかしいんじゃないかとずっと思っていた。それで、要請される人間的能力を基準にして、実存的経験としての「ギャンブル」の類型化を密かに企んだ。
パチンコ屋で淡々と過ごしている人達は、ある意味では現代ギャンブルにおける最先端ランナーである。彼らは傍からみる分には黙々としているだけだが、その実はチベットの修行僧もビックリな程に深い深い集中状態に入り込んでいたのである。
競馬などの競走系 ビッグ・データの解析
ポーカーや花札などのカード系 はったりや表情のコントロールなどのコミュニケーション能力
丁半博打やルーレットなどの確率系 損失に対する耐性=寛容(tolerance)
パチンコなどの機械系ではどのような人間的能力が要請されるのか、ずっと考えあぐねていたのだけど、パチンコの場合は、「ゾーンに入る」こと、「集中」が要請されているといっていいのだろうか。競馬において、馬や騎手や馬場に関する膨大な統計的データを適切に分析すること、ポーカーにおいてはったりをかましたり、ポーカー・フェイスを保つことは勝つために要請されている。丁半博打やルーレットでは、大局的には全ての人が勝つ。骰子は2分の1の確率で偶数または奇数になるのだ。ただ、短期的には半がずっと続いたり丁がずっと続いたりする。肝要なのは、そうした短期的な損失に動じることなく忍耐強く目が変わるのを待つことだろう。パチンコにおける「集中」だけれど、これはあくまでもパチンコをする人の動機づけの問題であって、「集中」することが勝つことと関係があるのかどうかはわからない。