「ロゴスするピュシス」

承前*1

福岡伸一「理系知と人文知のあいだ」『波』(新潮社)617、pp.40-42、2021


森田真生『計算する生命』の書評。


(前略)前作『数学する身体』もそうだったが、森田真生の本はいずれもタイトルが”ロゴスするピュシス”という構図になっている。なぜだろうか。私は、彼の問題意識の所在を次のように読み取った。
計算する(あるいは数学する)というきわめて論理的なロゴス的行為が、どうしてときに拡張性や生成性といったピュシス的な帰結をもたらすのだろうか、という大きな問いを解くこと。(p.41)

森田はここで、一旦立ち止まり、人工言語の始祖、ゴットローブ・フレーゲ(1848―1925)のテキストを丁寧に読み解く作業を行う。
フレーゲは、「主語―述語」という言語記述の曖昧さを乗り越えるため、「項―関数」という見方に基づく新たな論理体系を構築した。このことによって、ロゴスはさらに尖鋭なロゴスとなり、「言語」の計算的な操作が可能となった。同時に、ロゴスがピュシスに接近する様相を数学的に解析する基盤も出来上がったかのように思えた。ところが意外なところに矛盾が隠されていた。フレーゲはmそれを解決できないまま世を去ることになる。その人生、ピュシスもまた壮絶である。
が、彼の衣鉢を継ぐ者たちが現れた。ウィトゲンシュタイン(1889―1951)やチューリング(1912―1954)たちである。その先に、現在のコンピュータやAIの勃興がある。(後略)
一方、最初の問いはまだ解かれてはいない。繰り返すなら、計算という論理的でロゴス的行為が、なぜ生命的でピュシス的な帰結をもたらすのかという問いだ。フレーゲのロゴスは、あくまでもピュシスをたわめたものである。そこには”ねじれ”がある。わたしも正しく理解できた自信はないが、その理解への挑戦にこそ、生きて、考える意味はある。誤解を承知であえて単純化していえば、ピュシスの実相と、ロゴスの星座とのあいだに、集合的な写像関係を考えることに矛盾解消の希望が託される。(後略)
とはいえ、明示的な最終解が示されるわけではない。まだ、道半ばである。しかし、森田真生には若さと勢いがある。文章にひたむきさがある。真摯さがある。いつかこの数学最大の難問の向こう側に抜け出る理路を発見することに期待したい。(pp.41-42)

彼は、ピュシスがあえてロゴスに接近しようとすること、つまり生命や身体の自由が、AIやデータサイエンスに恭順しすぎる現在の世界状況に重大な懸念を表明する。その恭順の姿勢は、解へのアプローチとしては逆なのである。最高に純粋なとロゴスとしての数学がなぜ、最後にピュシスに帰依するのかが解かれなくてはならない。彼は言う。「生命を作ることで生命を理解するのではなく、生命になることで生命をわかるという道がある」(本書あとがきより)はずだと。
そのとおりである。生命は外部からではなく、内部から定義されなくてはならない。つまり、ピュシスをロゴスで解体するのではなく、ロゴスを外挿してピュシスに達しなければならない。(p.42)