大島康徳さん*1が他界したということなので記録しておく。
『中日スポーツ』の記事;
1970年代から80年代前半にかけてのドラゴンズは大島さん抜きに語ることはできないだろう。今ちょっと吃驚したのは、ドラゴンズ入団が谷沢健一さん*2よりも1年早かったことだ。大島さんを知ったのは谷沢さんよりも遅かったので。星野仙一と同期だったのか*3。Wikipediaを読んだら、数年間の2軍暮らしがあって、1軍デビューは1971年だったのね。これで自分の記憶と符合した。
大島康徳さん死去、70歳 中日で2度のリーグ優勝貢献 大腸がん闘病「余命1年」宣告から4年8カ月
7/5(月) 12:06配信
プロ野球の中日で活躍し、日本ハムの監督も務めた野球評論家の大島康徳さんが6月30日に大腸がんのため死去したことが、5日分かった。70歳だった。葬儀は親族らによる密葬で4日に行われた。近年は「ステージ4」の大腸がんや肝臓などへの転移を告白し、治療を受けながら野球評論家としての活動を続けていた。
大島さんは大分・中津工から1969年にドラフト3位で中日に入団。88年には日本ハムに移籍し、44歳まで現役を続けた。26年間で通算2204安打、382本塁打を記録。引退後は2000~02年には日本ハムで監督を務め、東京中日スポーツ、NHKで野球評論家としても活躍した。
大分弁で「負けてたまるか!」を意味する「負くっか」の思いを貫徹した人生だった。長打力を見込まれ、プロ入りと同時に野手に転向。不器用を努力で克服し、安定感はなくてもガムシャラなプレースタイルでファンに愛された。
大島さんは自身の現役生活を「私には記録という記録はない。中途半端な人間だと思う」と振り返る。それでも、83年に36本塁打で初の本塁打王を獲得したほか、代打としても勝負強さを発揮した。日本ハム移籍3年目の90年には当時最年長の39歳10カ月で通算2000安打を達成。2006年には第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表の打撃コーチとして世界一に貢献した。
2016年10月に大腸がんと肝臓への転移の診断を受け、「余命1年」を宣告された。その後も自らを「不真面目ながん患者」と表現し、治療を受けながら以前と変わらない生活を心掛けた。「1人ではがんと闘えない。社会とつながっていないと立ち向かっていけない」と、野球評論家としての活動も続けた。
今年6月にはがんが肺にも転移していることを自身のブログで告白していた。
▼大島康徳(おおしま・やすのり) 1950(昭和25)年10月16日生まれ、大分県中津市出身。中津工ではエースで4番。69年にドラフト3位で中日入団。74年と82年のリーグ優勝に貢献。88年に日本ハム移籍。一塁手、三塁手、外野手を兼務しながら通算2638試合出場で2204安打、382本塁打。引退後は東京中日スポーツ、NHKで野球評論家として活動。2000~02年は日本ハム監督、06年の第1回WBC日本代表では打撃コーチを務めた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e7542d545c67960a50c17fcfb3a4a0c4920ad721
不図思い出してしまったのだけど、ドラゴンズ・ファンだったNは今も元気なのだろうか。
*1:http://www.ohshima-yasunori.com/ https://ameblo.jp/ohshima-yasunori/ See eg. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E5%BA%B7%E5%BE%B3
*2:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110310/1299692398 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20141019/1413647417 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170320/1489976415 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180116/1516122979 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/01/20/093407 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/06/23/110424
*3:谷沢さんや星野が大卒だったのに対して、大島さんは高卒だったので、年齢もその分若い。