53歳で

NHKの報道;


柔道 金メダリスト 古賀稔彦さん がんのため死去 53歳
2021年3月24日 17時39分


鮮やかな背負い投げを持ち味に「平成の三四郎」と呼ばれたバルセロナオリンピック、柔道の金メダリストの古賀稔彦さん*1が24日、がんのため亡くなりました。

関係者によりますと、古賀さんは去年がんの手術を受けて、療養を続けていたということです。53歳でした。


「平成の三四郎
古賀さんは福岡県で生まれ、佐賀県で育ち、中学時代から柔道の私塾「講道学舎」で柔道を磨きました。
鮮やかな背負い投げを持ち味に「平成の三四郎」と呼ばれ、1992年のバルセロナオリンピックでは大会直前に左ひざの大けがを負いながらも男子71キロ級で金メダルを獲得するなどオリンピック3大会に出場しました。

1990年には中量級の選手ながらも体重無差別の全日本選手権に挑戦して決勝まで進出しました。

2000年に現役を引退したあとは日本代表のコーチや岡山県の大学の総監督としてトップ選手を指導し、みずから柔道の私塾を設立して子どもたちの指導を行うなど普及活動にも尽力していました。

関係者によりますと、古賀さんは去年がんの手術を受けて療養を続けていましたが、古賀さんのマネジメント会社は24日、がんのため亡くなったと発表しました。

53歳でした。


オリンピック3大会連続出場 バルセロナ大会で金
古賀稔彦さんは1967年に福岡県で生まれ、佐賀県で育ち中学時代からは、柔道の私塾「講道学舎」で柔道を磨きました。

背負い投げを持ち味に中学生の全国大会で優勝するなど早くから頭角を現し、日本体育大学に進学したあとは「平成の三四郎」と呼ばれました。
1990年には71キロ級の選手ながらも体重無差別の全日本選手権に出場し重量級の選手を次々と破って決勝に進出、当時の世界チャンピオンの小川直也選手に敗れたものの2位に入りました。
1992年のバルセロナオリンピックでは大会直前の稽古で、1階級上の吉田秀彦選手との乱取り中に左ひざのじん帯損傷の大けがを負いながらも、金メダルを獲得しました。
オリンピックにはソウル大会から、銀メダルを獲得したアトランタ大会まで3大会連続で出場しました。
2000年に現役を引退したあとは全日本女子のコーチに就任し、2004年のアテネオリンピックでは女子63キロ級で金メダルを獲得した谷本歩実選手と抱き合って喜ぶ姿が感動を呼びました。
2007年からは岡山県環太平洋大学の総監督として指導を行ってきたほか、川崎市内にみずから設けた柔道の私塾や、全国各地で柔道教室を開いて子どもたちを中心とした普及活動にも尽力していました。


古賀さんの母親「とてもよい息子」
佐賀県みやき町古賀稔彦さんの実家には、死去の知らせを受けて、親交のあった人たちが次々と訪れ、母親の愛子さん(79)とともに古賀さんを悼んでいました。

古賀さんの実家では死去のニュースが流れると、母親の愛子さんは映像に見入りながら、訪れた人たちとともに古賀さんの思い出などを話していました。

愛子さんは「けさ、長男からの電話で亡くなったことを知ってびっくりしました。『よく頑張った』としか言えません。がんの手術をしたことは知りませんでした。『お母さんに心配をかけてはいけないから病気のことは言わないで』と言っていたらしく、数日前に容体が悪いことを聞いて驚きました。私に何かと気をつかってくれるとてもよい息子でした」と話していました。

また、古賀さんの柔道生活については「道場での練習が終わった後、1人残ってさらに30分ぐらい先生に練習させてもらっていました。バルセロナ五輪で金メダルを取った時はうれしくて涙があふれました」と話しました。

古賀さんが小学2年生の時に担任だった女性は「当時、お母さんは稔彦さんのことを『体が弱い』と話していて、立派なスポーツ選手としてオリンピックで優勝されるような方になるとは想像もしませんでした。それでも足が速くすばしっこいところはありました」と当時を振り返っていました。

また、長女が古賀さんと同級生でおよそ40年間の親交があるみやき町の中島千里さん(75)は「つい先日、『稔彦さんは元気』と聞いたばかりだったのでびっくりしました。ソウル、バルセロナアトランタのオリンピックや国内の大会へも応援に行きました。稔彦さんがバルセロナで金メダルを取った時、うれしくて飛び上がって喜んだことが忘れられません」と話していました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210324/k10012932601000.html

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