やはりこの差異は重要

フロイド*1ヴィーガンの運動は狭量な妄想集団だと理解して、焼き肉食べに行こう」https://www.byosoku100.com/entry/2019/05/24/004736


ヴィーガン*2ということで、動物由来の食べ物を摂らないという信念やライフスタイルを有する人たちと、肉食なき世界を目指して肉屋などを襲撃するような人たちとは(用語上においても)区別をするべきだろう。「ヴィーガン」というとハイカラな響きもするけれど、精進料理というのは「ヴィーガン」であって、要するにかつての日本の坊主は「ヴィーガン」だったわけだ。


ところで黒人や奴隷差別の解消を持ち出して反論するヴィーガンが多いようだ。そして奴隷差別を引き合いに出すことが多いということは、彼らからは一般的に家畜を食べる人々が奴隷商人に見えているということでもある。

だが忘れては行けない黒人は同じ言葉を喋れる人間であり、生物学的にも同じ人間なのだ。豚や牛や猿とは違うのだ。人権という概念が我々にはあり、同じ人間だという考え方のもとで、差別が解消されていった歴史があるのだ。家畜と黒人奴隷を一緒くたにすることは間違いだ。動物には人権はないのだ。

「人権」という概念を持ち出すのは得策とはいえないと思う。何故得策ではないかというのはけっこう複雑な議論を呼び寄せてしまいそうな気がするので、今は踏み込まない。ここで言いたいのは、「人権」という抽象性に固執するよりも、もっと表層的なことに拘れ、ということだ。構造的劣位に置かれた人たちが権利を(人権として)獲得してきた、すなわち解放されてきた(liberated)という歴史がある。「動物」は有色人種や女性などに続くことができるかということだけど、黒人にしても女性にしても、みな、それぞれのカテゴリーに属する人たちが自らデモをしたり、演説をしたり、ゲリラ戦争をしたりしつつ、自らを解放してきたわけだ。他方、〈動物の権利〉を声高に称揚する人でも、「動物」*3がデモや演説によって自らの権利をアピールするということを想像することもしないだろう。そんなの当たり前だと言われるかもしれないけれど、この違いは重要だ。要するに、謂われるところの、〈動物の権利〉というのは、それを称揚する人間によって想像された権利に過ぎないということだ。勿論、それによって「動物」の生の質(QOL)が向上すればOKということになるのかも知れない。しかし、それはあくまでも福祉(welfare)=QOLの向上であって、〈権利〉の問題ではない。