トイレの話

村上春樹「野球と鯨とドーナッツ」(in 『ラオスにいったい何があるというんです?』*1、pp.185-198)からの抜書き。


あまり美しくない話で恐縮なのだが、ボストン・レッドソックスの本拠地、フェンウェイ球場の近くにあるスポーツ・バーで、生ビール(もちろんサミュエル・アダムズ)を飲み、トイレに入った。すると小便器の中に、ニューヨーク・ヤンキーズのマークのついたプラスチック製消臭剤が置いてあった。「ここに小便をかけてください」というわけだ(いちおうかけましたが)。そういう土地柄なのだ。わざわざそういう消臭剤がつくられ、堂々と市販されているのだ。考えれば考えるほどすごいなぁ。そんなわけで、人はその一帯を「レッドソックス・ネーション」と呼ぶ。通りを歩いている人々のほとんどはレッドソックスのキャップをかぶっている。まるで信仰告白のように。夜になれば、あらゆる市内のバーでは、レッドソックスの試合中継が放映され、人々は大声を上げて一喜一憂している。
それではニューヨークで、人々はレッドソックスのマークに小便をかけているだろうか? それはまずない、と思う。彼らはボストン市民がヤンキー図を目の敵にするほどには、レッドソックスを特別視していない。そこにはかなりの心理的較差がある。ニューヨーカーにとって、ボストンはニューヨーク以外の「その他大勢」の街のひとつに過ぎない。しかしボストン市民にとってニューヨーク・ヤンキーズは……。そのあたりは阪神タイガース読売ジャイアンツの関係に、かなり似ているかもしれない。(pp.188-189)
著名なレッドソックス・ファンといえば作家のスティーヴン・キング生物学者の故スティーヴン・ジェイ・グールドは、重要な信仰上の違いにも拘らず、キングと自分の「進化」に対するスタンスは一致していると述べていた(『ワンダフル・ライフ』*2)。グールドはヤンキーズの熱烈な信者だったが、ずっと敵地、つまりボストン郊外のケンブリッジのハーヴァードで教えていたのだった。
ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF)

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