「東北」の構築(メモ)

村と土地の社会史―若干の事例による通時的考察 (人間科学叢書 14)

村と土地の社会史―若干の事例による通時的考察 (人間科学叢書 14)

岩本由輝「戦前における農政と村落」in 『村と土地の社会史 若干の事例による通時的考察』*1刀水書房、1989、pp.100-141


取り敢えずメモ。


一八六八年以前には、陸奥と出羽、あわせて奥羽と呼ばれた地域が今日の東北地方であるが、近世には陸奥は東廻り海運によって江戸に、出羽は西廻り海運によって大阪に、それぞれ連なる別個の経済圏に属し、両者の一体性はきわめて乏しかった。東北あるいは東北地方という表現の初現は、管見では戊辰戦争のさなかの一八六八年七月、慶応が明治と改元される直前に木戸孝允が書いた「東北諸県見込書」にあるが、この月、藩閥政府は江戸を首都とする含みをもって東京と改称する。そして、その意味において、東北地方は、東京、すなわち近代日本の政策主体の所在地とのつながりなしにはありえないことになったのであり、以後、農政を含む政策一般の動向によって運命を左右されることになる。この間、先進・後進ということが、ともすれば東京からの距離の遠近の問題に還元され、しかもそれが常識化するとき、近代以前の段階にも投影されることになる。しかし、実は近代以前の日本列島には現代のような地域格差は存在しなかったのであり、東京からの距離の問題としての先進・後進は実体的には鉄道開通によって生み出されたものなのである。(後略)(pp.116-117)
なお「天保改革が失敗に終わる前後から、幕府はすでに地盤沈下していた経済の都大坂を”放棄”し、江戸に政治・経済の中心をまとめることによってゆらいできた幕藩体制の再編成を策するが、そのとき地域としての潜在力に着目され、後背地として期待されたのがのちの「東北地方」であった」(p.117)。そして、

(前略)藩閥政府も、大坂あるいは京都に留まらず、一八六九年三月、事実上、東京に遷都するとともに、幕府と同様、「東北地方」の潜在力に着目する。東京に第一師団・一高が置かれたとき、第二師団・二高が仙台に設けられたのも決して偶然ではなかった。ただ、藩閥政府が、当初、「東北地方」を対象に推進した政策は、後年のように農政に限られたものではなしに、富国強兵を実現するための殖産興業政策全般にわたり、釜石製鉄所の建設、安積疎水*2の開鑿・野蒜での洋式築港などに巨額の国家資金が投ぜられているのをみれば、二度に及ぶこの地域への天皇巡幸にみられるような戊辰戦争の、いわば占領地に対する政治的配慮とは別個の意図を感得できる。この時点では、東北地方は藩閥政府の政策のなかで積極的な開発対象として位置づけられようとしていたのである。
このように政策的に形成されようとしていた「東北地方」が具体性を帯びるのは、一八八一年創業の日本鉄道株式会社が、一八八二年、東北線建設に着手したときからである。その東北線の全通が一八九一年で、一八九八年常磐線、一九〇五年に官線として奥羽線が全通したとき、東京に鉄道で直結された地域としての「東北地方」ができあがるが、この過程で「東北地方」はかつての殖産興業政策全般の対象から外され、京浜・阪神の工業地帯に対する食糧や労働力の供給基地たるべき水稲単作地帯として位置づけられ、折から推進されていた農本主義的な小農保護政策と呼ばれる農政の典型的な施行対象とされてくる。そこには一八九七年を境に日本が米の恒常的輸入国に転化したことが大きくかかわっているのである。(p.118)