「進化」/「進歩」(メモ)

ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF)

ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF)

先日久しぶりにグールドの『ワンダフル・ライフ』を引っ張り出して頁を捲ってみた*1
少し抜き書きしてみる;


ダーウィンの心の内では、進歩という考えかたをめぐって、ああでもないこうでもないという葛藤が長く戦わされた。彼は、自分ががんじがらめになっていることに気づいていた。進化の機構を説明する基本理論である自然淘汰説は進歩については何一つ語っていないことが、ダーウィンにはわかっていた。自然淘汰説は、地域環境の変化に対応して生物が時間とともにどのような適応的な変化をとげていくか――ダーウィンのいう「変更をともなった由来」――を説明するだけである。ダーウィンは、自然淘汰節之もっとも過激な特徴は、進歩一般を否定して局地的な調整という考えを採ったことであると考えていた。ダーウィンは、アメリカ人古生物学者アルフィアス・ハイアット*2 (略)に宛てて、一八七二年一二月四日に次のように書き送っている。「ずいぶん考えましたが、私は、進歩的な発展をする内的傾向は存在しないという確信を退けることができません」
しかしダーウィンは、帝国拡張と産業革命の勝利の絶頂にあったヴィクトリア朝イギリスを批判すると同時にその恩恵にも浴していた。ダーウィンを取り巻く文化では進歩が合言葉であり、そのようにもてはやされていた魅惑的な概念を否定し去ることなどダーウィンにはできなかった。そのせいでダーウィンは、局地的な調整としての歴史という過激な見解で従来からの慰めに揺すぶりをかける一方で、生物の全体的な歴史には進歩というテーマが見られるとの見解も表明していた。(略)
(略)いかなる瞬間にも別の要因を進化させるように作用していた根本原因が二次的にもたらした累積効果、それが進歩であるとダーウィンは考えていたという言いかたもできる。一般的なデザインの向上によって達成される地域的な調整が、結果的に地質年代の長期にわたって生存できる可能性を高め、間接的な経路を経て進歩が出現しうるというわけである。
(略)自然淘汰説の論理が一方の方向にひっぱり、社会的な先入観が反対方向にひっぱる。ダーウィンはその両方に忠実でありたいと思っていたのであり、そこから生じるジレンマに一貫した態度で決着をつけることはなかった。(pp.445-447)
さらに、

ダーウィンはもう一世紀以上にわたって、科学界随一の聖人であり導師だった。そしていずれの見解もまちがいなくダーウィンの思想の一部であるため、その後の世代は、ダーウィン思想のなかで自分たちが支持したいと思っている真理や改革とうまく合致する側面だけを採用しようとする傾向があった。ヒロシマという”進歩”からそれほどたっていないうえに、産業や軍備競争がもたらす危機に圧倒させているいまの時代に生きるわれわれは、変化とは局地的な適応であり、進歩とは社会的な空想であるというダーウィンの明確な見解に慰みを感じようとしている。(後略)(p.447)
「進化」と「進歩」の同一視(混同)については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080129/1201627245 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091120/1258741355も参照のこと。