「いっしょ」にね

堀江貴文三田紀房寺田有希の座談会「読解力のないヤツが多すぎる明確な理由」*1における、三田紀房氏の「読解力の低下」とTVを結び付ける発言;


いわゆる60年代の人、僕もそうなんだけど、その頃からアニメがテレビで流れるようになったんですね。で、さっきの「読解力の話」のちょっと種明かしになるんだけど、読解力の有無で最も大きな影響してくるのが、絵本をたくさん読んでいるか否か。それでかなり変わるんですよ。

これは僕の勝手な想像と解釈でお話しさせていただいいてるんですけど、やっぱり読解力がどんどん落ちてきているなぁっていうことで、何が原因かなぁって考えると、恐らく2歳とか3歳とかの段階でアニメの動画をテレビで見せてしまうと。テレビの画面って文章が出てこないので、文字読解力みたいなのが身に付かないのはそこなんじゃないかなと思うんですけど。
松田道雄『定本 育児の百科(中)』*2の中から「テレビ」の弊害について述べられているところをピック・アップしてみる。松田はTVを言語習得を妨げるものとして認識している。

テレビの音声をならしっぱなしにしておいても、赤ちゃんは話せるようにならない。人間と人間との心のつながりが、テレビと赤ちゃんとではできない。むしろテレビの音声が雑音となって、母親のことばをきこえなくする。画像が、母親の行動を注目するのをさまたげる。赤ちゃんにことばをおしえるためには、テレビをかけないほうがいい。
服をつくったり、料理をこしらえることに熱心で、赤ちゃんに話しかける時間を惜しんでいると、赤ちゃんはことばをおぼえない。
(略)
赤ちゃんはことばを話すより先に、ことばの意味を理解している。りんごはどれといえば、絵本のりんごをさす赤ちゃんが、自分ではりんごといえない。いえるようになるのは母親の発声をみならうからだ。(後略)
(「10ヵ月から11ヵ月まで」、pp.383-384)

ことばの発達をおくらせるものとしてテレビがある。ことばは人間の心と心とをつなぐものである。自分の心にあるものを相手に伝えたいという気持ちがことばになる。ことばをおぼえさせる前に、心と心とをつながねばならない。
テレビによくでてくる人物は自動的に口から音をだすだけで、心がこもっていない。テレビにかじりついていると、放送局から送りだしてくる絵と音とを受けるばかりになってしまう。こちらから話そうという積極性が生まれない。だからテレビに子どものお守りをさせておくと、いつまでたってもことばがいえない。親と子の心と心とをつなぐためには、子どもを部屋にとじこめておかずに、散歩につれてでて、目につくものを話題にして親子で会話する。
(「1歳から1歳6ヵ月まで」、pp.468-469)
定本 育児の百科〈中〉5ヵ月から1歳6ヵ月まで (岩波文庫)

定本 育児の百科〈中〉5ヵ月から1歳6ヵ月まで (岩波文庫)

乳幼児は字が読めないので、大人に読んでもらうしかない。そのことによって、図らずも、子どもと大人が同時に同じ場所で、同じ言葉やヴィジュアル・イメージの経験を共有するということが生起する。そのような共有なくしては子どもは絵本を経験できない。それに対して、TVの場合、同じ場所に大人がいなくても、子どもだけでその内容を享受することができる。「テレビに子どものお守りをさせておく」というのは、まさに子どもが独りでTVと対峙しているという状況だろう。しかし、TV番組(或いは映像作品一般)は必ずしもそのような〈遠隔電子子守り〉のためにあるわけでもないし、子ども独りでの視聴を前提にしたものでもないだろう。『おかあさんといっしょ*3というタイトルの番組もあるけれど、幼児番組の多くは大人と「いっしょ」に観ることを前提に作られているのではないか。何が言いたいのかといえば、「アニメの動画をテレビで見せてしまう」ことそれ自体が問題なのではなく、子どもが孤立した状態で見せてしまうことが問題なのだということだ。実際息子が5歳くらいまでは息子がDVDとかを視るときは殆ど常に一緒に付き添っていた。「アニメ」も、大人と「いっしょ」に大人とコミュニケーションしながらという状況で享受すれば、絵本の読み聞かせに似た経験を構成することができるわけだ。また、ホリエモンが与えられたという「レコード絵本」にしても、独りで享受していたなら、それは「テレビに子どものお守りをさせておく」こととあまり変わらないわけだ。