「存在しない字」

多和田葉子『言葉と歩く日記』*1からの抜き書き。
「手書き」のエクリチュールを賞賛したり、その衰退を嘆いたり、それと同時にPCなどの電子的なエクリチュールを貶めたりする言説というのは多いのだけれど*2


手で字を書くのは楽しい。自分で思った通りの形をそこに記すことができるという当たり前のことが楽しい。フリガナを付けることもできるし、傍点を振ることもできるし、存在しない字を書くこともできる。それはパソコンでもできる、という人がいるだろうが、どうやってやるのか調べて、それなりに操作しなければならない。鉛筆は、わたしが思い浮かべる文字をそのまま紙の上に写し取ってくれるのだ。手書きだと漢字変換してもらうことができないので、思い出せない字は辞書で調べないと書けないが、それもまたどこか気持ちがいい。忘れた字は書けない。この当然さが気持ちいい。知らない字がいくらでも出てくるディスプレイは他人の遊び場である。
HとAのキーを打って、ディスプレイに「は」が出たのを確認して、漢字変換キーを「葉」が出るまで押し続けるという作業は、「葉」という字を「書く」というより、「葉」という形を見つけるゲームをしているようなものだ。(pp.189-190)
また、

わたしは小学校の頃から字を読んだり書いたりするのは大好きだったが、漢字をまrちがえるのも得意だった。でも最近、昔はなかったような間違い方をする。「助詞」を書こうとして、「序詞」と書いて、あわてて消しゴムで消す。「練習」と書こうとして「連習」と書いてしまう。なんだか漢字の変換ミスを思わせるような間違い方だ。コンピュータの脳の癖の欠陥が伝染してしまったのかもしれない。(p.204)