からから

山下柚実「47年ぶりの『吸血姫』  唐組の紅いテント芝居には、人をさらう力がある」https://www.huffingtonpost.jp/yumi-yamashita/play-20180528_a_23442259/


唐十郎*1の『吸血姫』再演の話。海を隔てて観に行けないことに心はとてもうずうずしている。それと同時に、私の記憶もちょっと刺戟された。主演の銀粉蝶がやっていた「ブリキの自発団」*2という劇団には片桐はいりさん*3もいたのだとか。また、1984年だったと思うけれど、新宿西口公園に状況劇場を観に行ったら、私の2列後ろの地べたに大江健三郎がちょこんと座っていたとか。
ところで、1980年代までは頻繁に芝居を観ていたのだが、平成になって急に芝居から足が遠のいてしまった。その理由なのだが、山下さんは『吸血姫』或いは唐十郎の世界について、


その物語は......幕がパッと開くと、スポットライトを浴びながら白衣姿で歌う銀粉蝶。歌手デビューを夢見る老看護婦の役を、銀粉蝶が取り憑かれたような狂乱ぶりで演じ、観客の心をわし掴みにしていきます。

そして舞台の上には次々に、関東大震災で焼けた町、被災者が眠る上野の森、その先に立ち現れる幻の満州、東洋のマタ・ハリと呼ばれた女スパイ川島芳子......と幻想のように幾重にもイメージが立ち現れ、地層のように折り重なっていく。

まるで禍々(まがまが)しい悪夢を見ているようでもあり、観客の意識は日常と切り離され、幻想空間へと連れ去られます。

と書いている。1980年代までのアングラ(唐や寺山修司)でも小劇場(野田秀樹如月小春など)でも、その状況やキャラクターは多重的で「地層のように折り重なって」いた。 役者が一般人からフィクショナルなキャラクターへと変身しなければいけないのは当たり前だが、フィクショナルなキャラクターも演劇的な現実の中で自発的・非自発的な変身を余儀なくされるわけだ。言うまでもなく、この状況やキャラクターの多重性はお能や歌舞伎に遡る。1990年代になると、突如リアリズムが復権して、状況やキャラクターの多重性が解消されてしまった(ように感じた)。芝居によって「日常と切り離され、幻想空間へと連れ去られ」ると感じることができなくなったということだ。
ところで、アングラ芝居における状況やキャラクターの多重性を手っ取り早く実感するには、朝吹真理子『流跡』を読むことをお勧めする。朝吹さんがこの感覚を獲得したのはアングラというよりは歌舞伎研究を通してだったという可能性が強いのだけれど。
流跡 (新潮文庫)

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