『アマルコルド』(メモ)

須賀敦子「わがこころの愛するものへ」(in 『塩一トンの読書』*1、pp.67-70)


フェデリコ・フェリーニ*2の『アマルコルド』を巡って。
フェリーニムッソリーニ*3は同郷人だった;


(前略)綿毛のことをマニーネと呼ぶのも、そもそもアマルコルドというタイトルそのものも、たいていのイタリア人にはなにを指すのかはっきりわからない方言なのだけれど、「こころが愛するもの」という語源を想像して、なるほど故郷のことにちがいない、とほぼ察しがつく。それにしても、「こころが愛するもの」とはなんという直截的な表現だろう、まったく過激でセンチメンタルで芝居気たっぷりで大げさで、それがいかにもロマーニャ人らしい。そんなふうにもロマーニャ人でないイタリア人のおおかたは、思う。
フェリーニは一九二〇年にロマーニャ地方*4のリミニ*5というアドリア海岸の町で生まれた。ムッソリーニもおなじ地方の生まれだといえば、この地方の人たちの政治好き、芝居好きがすこし理解されるかもしれない。じっさい、ロマーニャ人だったあの男のとんでもないバカ芝居に、国ぜんたいが巻き込まれたのがイタリアのファシズムの本質だったという意見を、何人かのイタリア人から聞いたことがある。(pp.68-69)

『道』のジェルソミーナはもとより、目のみえない街角の楽師や、こびとの修道女、精神病院にいる叔父さんなど、フェリーニの映画には、からだや精神に障害をもった人物がよく描かれた。そこには、イタリア人がなによりも大切にする、メラヴィリア、自分にはとてもできない、とてもなれない、ある意味では常軌を逸した、目をみはらせるようなできごとやものごとや人たちへの、驚嘆と尊敬の交錯する精神が深く根をはっている。
こういう人たちがいて人間の世界がほんとうに人間らしくなる、そういったことを、ゆたかさの溢れる映像で示してくれたのが、たぶんフェリーニのすばらしさのひとつなので、彼の映画、とくにこの『アマルコルド』を見るたびに、この人は、ナチズムやファシズムの犯した罪の醜悪を、人間をぜんたいとして見ることで償ってくれたように思えてならない。(p.70)
道 [DVD]

道 [DVD]

因みに、『アマルコルド』はいちばん最初に観たフェリーニの映画。