「富国強兵」から「健康ブーム」へ

疑似科学入門 (岩波新書)

疑似科学入門 (岩波新書)

池内了疑似科学入門』*1から抜書き。


歴史的に見れば、日本では個人の肉体を国家が管理する体制が長い間続いてきた。富国強兵が謳われた時代、体を鍛える目的は国家への奉仕を完遂するためであった。ラジオ体操もお国に使えるために健康を持続することが目的である。かつ植民地の人々を管理(監視)するためにも使われた。そこに集い(顔を出さねばならない)同じ運動をする(人に同調しなければならない)ことを強要したのである。「健全な肉体に、健全な魂が宿る」として、健康な肉体を獲得することを優先したが、精神主義を鼓舞するため肉体を付属物としてしか見なさなかったとも言えるのだ。「体育」は、健全な身体の発達を通じて人間性を豊かにすることが目的であるのに、もっぱら体の育成ということに矮小化されてしまった。
戦後になって富国強兵策は下ろされたが、今度は国家の復興のために健康を維持することが求められた。依然として肉体は国家が管理するものでしかなかったのだ。そのことは、今なお各種のスポーツで精神主義が罷り通り、国家の栄誉を担っていることからもわかる。精神と肉体は一体であるとして、体を鍛えることが精神を強めると誤認して特訓に励んでおり、数々の国際大会で国旗が掲揚されるように、国家を代表して勝敗を争う状況が続いている。その結果、オリンピック選手が日の丸を背負って重圧を受け、それを肉体の厳しい鍛錬に置き換え、結局体を潰してしまう場合も見受けられる。スポーツにおける国家第一主義が精神主義を生み出している面もある。
しかし、少しずつ様変わりしつつある。スポーツ選手が「楽しみたい」という言葉を異口同音に語るようになり、勝利よりも全力を尽くすことを目標とする選手も増えている。外国の選手の多様な生き方を学び始めたことも影響しているだろう。経験主義的な訓練法から、科学的トレーニングが重要視されるようになったことも変化の兆しである。
その背景には、ようやく日本でも健康のみを指向したスポーツ活動が根付きつつあることがある。高齢者が増えて、健康維持が主目的となった体操・速歩・ジョギング・水泳などが流行しているからだ。生活の基盤となる年金が減る一方の高齢者にとって、健康を害してはやっていけないことが目に見えており、未来への不安を少しでも和らげようとしているのだろう。いわば、社会的な圧力(社会から脱落したくないという脅迫感)に煽られた健康ブームなのである。それが「健康のためには命を失っても構わない」という倒錯した心情にも通じている。何のために長生きするかを問うことなく、長生きすることのみが目的となっているのである。健康であることが呪文化しているのだ。(pp.106-108)
さて、日本近代の「身体」・「健康」観を巡っては、北澤一利『「健康」の日本史』*2を再度マークしておく。また、2001年には、岩波新書から、飯島裕一編『健康ブームを問う』というのが出ている。
「健康」の日本史 (平凡社新書)

「健康」の日本史 (平凡社新書)

健康ブームを問う (岩波新書)

健康ブームを問う (岩波新書)