米国と露西亜

北村紗衣*1「キモくて金のないおっさんの文学論〜『二十日鼠と人間』と『ワーニャ伯父さん』」http://wezz-y.com/archives/50640


「キモくて金のないおっさん」*2文学の代表としてのジョン・スタインベック二十日鼠と人間』とアントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん』。そういえば、チェーホフはともかくとして、スタインベックは全然読んでいないのだった(orz)。だって、如何にも埃臭そうじゃん。でも、ここで紹介されている『二十日鼠と人間』は現在「キモくて金のないおっさん」問題として論じられていることのエッセンスが詰まっている感じもする。「おっさん」同士の足の引っ張り合い、ミソジニー、またホモソーシャルな夢とその挫折。

かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)

かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)


キモくて金のないおっさんが社会から無視されてきたと思われる方もいるようですが、実は近現代文学はこのようなおっさんの宝庫です。お金もなく、女にモテず、不幸で若くもない男の絶望に対しては、19世紀からこのかた、アメリカやヨーロッパの優れた男性作家が関心を寄せてきました。イギリスやアイルランドの演劇にはこの手のおっさんが山ほど出てきます。サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』(1953)に登場するキモくて金のないおっさん、ウラディミールとエストラゴンの役には多数の名優が挑戦してきましたし、最近ではアイルランド系イギリス人の劇作家マーティン・マクドナーがこうしたおっさん劇を得意としています。少なくとも文学史上においては、キモくて金のないおっさんは無視されるどころか主役なのです。
だって!
また、

 問題なのは「キモい」の定義です。「キモい」というのは非常に主観的で、容姿や印象が悪いというような表面的なことから、人格面で高潔さや思いやりが皆無だというような人間関係に破壊的影響を及ぼすことまで、様々な意味で用いられているようです。青柳美帆子は湯川玲子などを引きながら、この言葉を「出世しておらず、カネがなく、女がなく、競争に勝てなかった中年(以上の)男性」として定義しています。女に好かれない、連れ添う女がいないというのはこの種の議論によく出てくる「キモさ」で、どうもヘテロセクシュアルの男性を想定しているようです。まとめると、キモくて金のないおっさんとは、ヘテロセクシュアルで、仕事も私生活もうまくいかず、金銭的に問題を抱えた中年以上の男性を指すようです。
ここで参照されている青柳美帆子さん*3の文章は、


「Togetter大注目の地獄「キモくて金のないおっさん」はどのようにつらいのか」https://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20150526/E1432585485893.html


曰く、


言うまでもないが「キモくて金のないおっさん」というのは非常に偏った言い方だ。そもそも、どういう男性のことを指しているのだろう?

湯山玲子の『男をこじらせる前に』には、このような文章がある。
〈結局のところ男が現実社会で追求するのは、三つ。「出世」「カネ」「女」、である。と、本当につい最近まで、この言説は信じられてきた〉
つまり「キモくて金のないおっさん」とは、湯山の基準で言いかえれば、「出世しておらず、カネがなく、女がない中年男性」ということになる。
このどれもが「競争」からは逃れられない。つまりもっと言うと、「出世しておらず、カネがなく、女がなく、競争に勝てなかった中年(以上の)男性」ということだ。

「出世しておらず、カネがなく、女がなく、競争に勝てなかった中年(以上の)男性」.。「女がなく」以外はみんな当て嵌まってしまう<俺