「工作員に電磁波で操られていた」か

承前*1

園田寿*2「洲本5人殺害事件 「何がなんだか分からない状態で」死刑判決」https://news.yahoo.co.jp/byline/sonodahisashi/20170324-00069054/


淡路島5人殺しの平野達彦に対する「死刑判決」を巡って。
先ず責任能力について。以下に引用する部分では、「刑事責任」が主語になっているが、「刑事責任」が問われる前提である責任能力の有無を主語として考えた方がわかりやすい。


刑事責任とは、物事の是非・善悪を理解し、それに従って自分の行動をコントロールできる状態にあったことを意味します。つまり、犯罪行為を、犯罪行為だと知りながら、それを自らの自由な意思によって決断したその意思決定が〈責任〉あるいは〈刑事責任〉と理解されています。

このような〈自由な決断〉が刑罰の前提とされているのは、刑罰に〈非難〉という要素が含まれているからです。〈非難〉とは、行為者に対して「なぜ、そのような事をしたのか」と問うことです。それは、犯罪を犯した者に対して、刑罰という肉体的な苦痛を通じてこのような問いを発することで、自分が行った行為の道義的な意味に気づかせ、内省の重大な契機となるように働きかけるためです。

自由な意思決定とは、何ものによっても強制されていないということです。たとえば、「目の前の者を殺さないと、お前を殺す」とピストルを突きつけられて殺人を犯した場合、その人は殺人を回避するためには自分が死ぬ以外に選択の余地がないような状況下にあったわけですから、殺人について自由な意思決定を下したとはいえません。また、ある人が自分を殺そうとしているとの病的な強い妄想に支配されて、正当防衛のつもりで殺人を犯した場合にも、その人に対して〈なぜ、そのようなことをしたのか〉と問うことは無意味です。 なぜなら、その人は、その行為が道義的にもまったく正しいことだと信じ切っているからです。

これは「責任」をどこまで厳しく追及するのかということに関わっているだろう。悪を為すよりも悪の犠牲になった方がましだということもある。最後のパラグラフの例の場合でも、最も強く「責任」を問えば、あなたには殺すことを拒否して殺されることを選ぶ自由があった筈だということになる。実際、戦争犯罪裁判ではこのように最も厳しく「責任」が追及されていたといえる。独逸軍にせよ日本軍にせよ、(例えば)捕虜虐待で告発つされた軍人や軍属は主観的にも客観的にも(第三者から見ても)捕虜を虐待しなければ自分が上官などから迫害され、場合によっては生命を失う可能性もあったわけだ。しかし、彼らは捕虜に対する虐待という自らの行為の責任を追及され、刑罰を受けた。ここまで厳しくはないだろうけど、企業ぐるみ・組織ぐるみの犯罪の場合でも、邪悪な社命或いは上司の業務命令を拒否したら失業して路頭に迷うといっても、そのことによって「責任」が完全に免除されるということはないだろう。
最後のパラグラフで挙げられている2番目の例。狂気(疎外)の場合。「ある人が自分を殺そうとしているとの病的な強い妄想に支配されて、正当防衛のつもりで殺人を犯した場合にも、その人に対して〈なぜ、そのようなことをしたのか〉と問うことは無意味です」。まさに平野達彦はそうなのだが、そのような人に「責任」は問えるのか。多分、行為者にとっての選択可能性を考えなければいけないのだろうと思う。自分がやろうとしている「殺人」というのは俗社会の法律では犯罪であり、最悪の場合には死刑になる可能性もあるということを知っていたのかどうか。知っていて敢えて「殺人」を選択した「責任」を取ってもらうということになるのだろう。平野達彦に対する判決もそのような前提で行われたのだろう。
「その人は、その行為が道義的にもまったく正しいことだと信じ切っているからです」というのは、目的は手段を正当化するかという問題と関係しているのだろうか。また、〈愛国無罪〉とか〈革命無罪〉といった発想に〈法〉は如何に応答できるのかという問題。
洲本市の事件に戻って、「精神鑑定」について;

本件でも、2名の精神科医が鑑定人として意見を述べられています。

被告人の特異な世界観については、妄想であるとするD医師と、それを否定されたM医師とで判断が分かれましたが、両医師とも、特異な世界観が形成されるにいたった原因は、精神障害だけではなく、インターネットや書物の影響、被告人の本来の性格、生育歴などが考えられるという点では一致しています。

そして、犯行時の精神状況については、次のように判断されています。

本件犯行については、被告人は犯行当時切迫した恐怖を感じていたわけではなく、直接的に殺害を促すような幻覚・妄想等の症状があったわけでもない。
被告人は、自分の行為が殺人として犯罪になり、逮捕され裁判を受けることになると認識していた。
犯行前の生活の様子や逮捕時の落ち着いた言動などから、犯行当時の被告人の病状はそれほど悪化しておらず、被害者らの殺害を決意し、実行したその意思決定と行動の過程には、病気の症状は大きな影響を与えていない。

また、

判決文の中で被告人の犯行動機は、次のように説明されています。

被害者らが被告人に対して電磁波攻撃を行なっている工作員であって、彼らに対して報復し、特殊兵器によるこのような攻撃が現実に行われているということを世間に明らかにするということであり、薬剤性精神病の影響によって、被害者らに悪感情を抱くのもやむを得ない面があり、日常的に攻撃を受けていたと考えていたことから、誤想防衛に近い側面も否定できない。

裁判所は、このように特異な世界観が犯行の裏に存在することを認め、誤想防衛に近い犯行だとしながら、他方で、犯行(殺害の決意)への病気の影響は乏しく、殺人は正常な精神状況で行われているとも判断しています。

私には、その論理には溝があるような気がします。

私は死刑制度に反対しているので勿論「死刑判決」を肯定することはできないけれど、有罪を判断した裁判所のロジックはけっこう共感できるのだ。
さて、「死刑判決」の理由のひとつとして、「更生不可能性」が挙げられているのだが、これには疑問を持つ。「更生」が何を意味するのかは問題だが、それには「妄想」からの解放が含まれるのだろう。 また、その問題は無罪を主張した弁護側にも投げかけることができるだろう。精神病の治癒可能性の問題として。
ところで、『毎日新聞』の記事によると、平野は「公判では「工作員に電磁波で操られていた」などとして起訴内容を否認」したのだった*3。裁判所はこの主張を平野の主観的リアリティとしても認めなかったわけだ。この主張は「被害者らが被告人に対して電磁波攻撃を行なっている工作員」だという主張とは(同じトンデモであるにしても)次元を全く異にしている。「電磁波」を使っているかどうかはともかくとして、特定の個人を「工作員」と名指す言説はそこかしこに溢れている*4。誰それは工作員だ! という場合、それはあくまでも他者というか〈私〉の外部だ。取り敢えず、私/他人、非工作員工作員という区別は維持されている。「工作員に電磁波で操られていた」という主張の場合、この私/他人、非工作員工作員という区別は自明ではなくなる。「工作員」はたんなる〈私〉の外部ではなく、私の心の内部に入り込み私に命令する準自己のような存在になっている。もしこれがほんとうに平野の主観的リアリティであったら、「責任」の前提としてある、自己と非自己(他者)との自明な区別が崩壊していることになる。そうすると、「責任能力」というのはその前提から崩れていくことになる。裁判所の判断としては、「工作員に電磁波で操られていた」云々というのは、犯行前後の平野の主観的リアリティなどではなく、被逮捕後或いは被起訴後に、犯行の責任から逃れるために捏造的に構築されたフィクションであると判断したということなのだろうか。