「欲情」(川上弘美)

真鶴 (文春文庫)

真鶴 (文春文庫)

川上弘美*1『真鶴』から。


急に空が広くなった。海が遥か下にある。いくつもの波頭が白くくだけている。のぞきこむと、ひとりふたり、狭くくねった坂道をつたって崖下の波打ち際へおりてゆく。指ほどの大きさにみえる。
ここから飛べばすぐに死ぬ。そう思いかけて、途中でやめた。すぐに、のあたりで、冒瀆的というものでもなく、発熱の直前にだるさとにぶさが混じったようなこころもちになった。もてあそぶほど死は遠くにない。すぐそこにあるというものでもないけれど。
しばらく目をこらしているうちに、おりてゆく人ふたりが底についた。両手をまうえにさしのばし、のびをしているのだろうか。指ほどの大きさにしかみえないのだから、気持ちがよさそうなのかそうでないのか、わからないはずなのに、爽快な絵である。風が雲を飛ばして、天頂には青い色ばかりがある。真鶴、と口にしてみてしばらく、崖下を見やり、ほんの少し欲情した。(pp.16-17)

かたちあるものに欲情することは、少ない。少なくなった。
よろこびにつながることもあるし、えぐられるような寂しさにゆきつくことも、そしてどんなところにもゆかず、ただそこにぽかりと浮かぶばかりのこともある。どちらにしてもそれを欲情と名づけただけのことである。(p.17)