カントと「歴史」(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160325/1458863775の続き。

新・岩波講座 哲学〈5〉自然とコスモス

新・岩波講座 哲学〈5〉自然とコスモス

礒江景孜「自然と歴史」(in 『新・岩波講座哲学5 自然とコスモス』、pp.60-84)から。


人間は自然の中の単なる物理的存在や有機的存在であるだけでなく、さらに自然法則とは別の道徳法則に従って自由を意識する存在、叡知的存在でもあり、その自由が実現されてゆく過程が歴史である。歴史はすべてが全体として人間の愚行や虚栄や破壊などから織り合わされて成立しているかのように見える。しかし歴史はいっそう悪くなって行くのか、いっそう良くなって行くのか、それとも全く同じことの繰り返しなのか、といった問いは理論的‐経験的に確定されうるころでなく、肝要なのはむしろ、それでもなお歴史に意味があるのか、「われわれは何を希望してよいのか」という実践的問いである。この未来への実践的問いに基づいて歴史の「何処から何処へ」、発端と終局が想定されなければならない。(略)現在のみに拘束されないで未来へと開かれる人間の存在様式は人間の優位性の決定的特徴であって、人間は多くの動物種の中の一つとしての自然的存在でありつつ「自然の主人」であり「自然の目的」であることを意識する。歴史の最終目標は「世界市民的全体」という各人の自由が両立する法的市民体制である。発端と終局の中間は、人間が自己のあらゆる自然素質を、すなわち「人間的自然」を発展させて外的自然への依存から解放される過程であるから、人間史の全体過程が終局目標への接近であるとする考え方の根底にあるのは自然の問題である。この自然は目的論的自然である。(略)自然の目的連関に統一を与えるのは、人間の自然素質の完全に展開された全体としての「文化」(Kultur)である。この文化‐目的が達成されうるのは個人においてでなくて類(Gattung)においてである。したがって歴史の終局は文化を達成しうる世界市民的全体の形成にある。歴史はこうした未来の目標へと展望的に発展する歴史であって、回顧的に過去を理解することにあるのではない。
カントの歴史哲学が自然法則に類似した歴史の客観的法則の発見を主要な意図としていたかどうかは問題となるところであるが、しかし歴史的世界が自然的世界と区別されて構成されるための原理は明確でない。アプリオリな導きの糸をもつ世界史の理念と「本来的な、単に経験的に編まれた歴史学(Histoire)」とが区別されたままであるため、経験そのものにおける自然的出来事と歴史的出来事との区別が導き出されえない。彼は自然科学的な経験・客体概念を一般化し、物理学の構成的‐因果的経験をあらゆる経験にまで拡張する傾向にあった。経験一般のみがあって特定の経験は問題外のことであった。(pp.66-68)
と書いたことがあった。
また、

歴史は時間過程であって、時間を基礎カテゴリーとしているが、カントの直観形式としての時間は自然認識の可能性のアプリオリな形式であり、出来事の「順次」の形式にとどまっている。いわゆる自然の「出来事」と区別される人間の「行為」の時間性は、自然現象においては本質的意味をもたない過去・現在・未来の時間様相の統一から成り立っているだろう。歴史における人間の行為が未来の目的表象を動機として行われることはカントにおいても認められているのだから、この行為概念の分析から歴史的時間の構造が明らかになるはずであろう。後にディルタイ純粋理性批判に対する歴史理性批判において、歴史的世界の構成を明らかにしようとしたが、それは何よりも生の時間分析を基礎にしてのことであった。(p.68)
さて、カントと「歴史」というと、今でもハンナ・アレントの「カントにおいて、歴史は自然の一部である」*1という言葉が頭の中のかなりの面積を占領しているのだった(『カント政治哲学の講義』、p.5)。
カント政治哲学の講義 (叢書・ウニベルシタス)

カント政治哲学の講義 (叢書・ウニベルシタス)