比叡山と琵琶湖

嘉田由紀子*1「「神と仏が住まう湖」琵琶湖が今年、日本遺産第一号に」『烏梅』(叶匠壽庵*2)15、2015、pp.9-11


比叡山は京都の鬼門というよりも寧ろ琵琶湖の西であるという。
曰く、


(前略)確かに比叡山平安京の守護神として、また時の政治・宗教的な力と結びついて、平安の都を守り続けてきた「お山」である。山といえばそれは比叡山の代名詞であった。ただ、歴史的にみると比叡山の成り立ちにつながるもともとの正面は琵琶湖側なのである。(略)
延暦寺を建立した伝教大師最澄は、琵琶湖近くの滋賀郡で生まれ育ったといわれ、瀬田の国分寺で修業中、琵琶湖を経て対岸にそびえる比叡山の頂上に根本中堂の元となる祠をつくり、薬師如来を納めた。時は延暦七年(七八八年)、平安京が造営される七九四年よりも六年前だ。薬師如来はそもそも東方浄瑠璃世界の教主であり、穢れを除き病を癒すものとして祀られてきた水と深いつながりがある。東の空、つまり朝日により瑠璃光に輝く「水の浄土」の主が薬師如来でもある。
となると、比叡山の東にひろがる琵琶湖こそが、薬師さんを瑠璃光で照らす聖なる湖となる。平安時代の歌謡集「梁塵秘抄」には、「近江の湖は海ならず、天台薬師の池ぞかし」とうたわれ、当時の人たちは琵琶湖を薬師如来の浄土と意識していたことがわかる。(pp.9-10)
また、琵琶湖から薬師如来が出現したという話も多いのだと。例えば、大津市比叡辻の「聖衆来迎寺」、近江八幡市安土町の「桑実寺」(p.10)。

さて、仏教が日本に伝来する以前、琵琶湖周辺には水や樹木、山や磐岩に宿る自然の力を信仰するアニミズムがすでに人びとの心に広まっていた。最澄が仏の教えを広めようとする時、在地の信仰に敬意をはらい、坂本の日吉神社を地主神として崇敬したのもうなづける。
延暦寺では、日吉山王権現信仰と天台宗の教えを結びつけ、天台宗の教えを結びつけ、天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建された。全国二〇〇〇社を超える山王神社の総本社が坂本日吉さんでもある。(p.10)
そして、江戸の話;

江戸時代初期、江戸の町づくりに琵琶湖モデルが活用されたことを知る人は今では少ないが、そもそもなぜ東京・赤坂に山王さんがあるのか。山王の神さんが守るお寺さんは寛永寺だ。上野の寛永寺寛永三年(一六二五)、家康・秀忠・家光の三代にわたる将軍の信頼を得た慈眼大師天海大僧正によって創建され、「東叡山」と呼ばれた。そのご本尊が江戸時代初期に近江・草津矢橋の石津寺から動かされた薬師如来である。というのもこの薬師如来は、伝教大師最澄自身が地元の大木から刻んだ二体の内の一体と伝えられていたからだ。ご本尊の薬師如来に東の方向から瑠璃光を注ぐ聖なる水が不忍池でその真ん中の弁天さんは竹生島の見立てである。
明治時代になり、上野の寛永寺領は新政府によりそのほどんどが没収され、公園や博物館などにかえられた。また明治政府による「神仏分離令」により、総本社の日吉大社延暦寺と引き離され仏教色が廃された。(pp.10-11)