本島等

もう先月の話になってしまったが、元長崎市長本島等*1が死去。享年92歳*2
『朝日』の記事;


本島等・元長崎市長が死去 天皇戦争責任答弁・銃撃事件

2014年10月31日20時34分


 元長崎市長で、昭和天皇の戦争責任に言及したことで銃撃された本島等(もとしま・ひとし)さんが、10月31日午後5時27分、肺炎で死去した。92歳だった。葬儀は近親者で行い、後日、有志による「本島等とのお別れ会」を開く。

 京大工学部卒業後、高校教師や長崎県議を経て、1979年に長崎市長に当選。95年まで4期務めた。昭和天皇死去1カ月前の88年12月に「天皇の戦争責任は私はあると思います」と市議会で答弁。90年1月、長崎市庁舎前で右翼団体幹部に銃撃され、胸部貫通の重傷を負った。

 92年には市長として韓国の被爆者を初訪問し謝罪。ライフワークとして、中国人強制連行被害者の支援も続けた。
http://www.asahi.com/articles/ASGB06RXCGB0TOLB018.html

『毎日』の記事;

訃報:本島等さん92歳=元長崎市長

毎日新聞 2014年10月31日 20時36分(最終更新 10月31日 23時19分)


 長崎市長在任中の1988年に「(昭和)天皇に戦争責任はあると思う」と発言し国内外で議論を呼び、右翼団体幹部から銃撃された本島等(もとしま・ひとし)さんが31日、肺炎のため亡くなった。92歳だった。自宅は長崎市下西山町7の1。葬儀は近く密葬を執り行い、後日「お別れ会」を開く予定。

 1922年、長崎県五島列島の北魚目村(現・新上五島町)で生まれた。旧制高校在学中に徴兵され、陸軍の西部軍管区教育隊(現・熊本県合志市)で終戦を迎えた。戦後は京大工学部を卒業後、高校教師、衆院議員秘書や県議5期、自民党県連幹事長などを経て、79年4月に長崎市長に初当選し95年まで連続4期務めた。

 天皇の戦争責任を巡る発言は3期目の88年12月7日。市議会の答弁で、自身の1年4カ月間の軍隊体験なども踏まえ「天皇の戦争責任はあると私は思います」と述べた。議会後の記者会見でも「戦争終結を早く決断していれば沖縄、広島、長崎はなかったと思う」と語った。

 当時は昭和天皇が重病だったこともあり、発言には賛同、批判両方の立場から議論が起きた。撤回の要求に本島さんは「天皇についての自由な発言ができずして、日本の民主主義の発展は期待できない」などと自身の立場を貫いた。90年1月18日、発言に反発した右翼団体幹部に長崎市役所前で銃撃され、左胸貫通の重傷を負ったが、命をとりとめた。

 5選を目指した市長選(95年)で落選後も、表現の自由や原爆投下などについて発言を続けた。長崎市平和公園にある中国人原爆犠牲者追悼碑の設置・維持や、反核・平和を訴えようと市民団体が平和公園で1月1日に行う「正月座り込み」にも今年1月まで参加するなど、平和への活動に晩年まで取り組んだ。【小畑英介】
http://mainichi.jp/select/news/20141101k0000m040065000c.html

See also
gfrgehyyda*3「訃報:本島等長崎市長 本島等さん肺炎のため亡くなる 92歳」http://matome.naver.jp/odai/2141478921894701701

きわめて通俗的に言ってしまえば、本島氏の人生のクライマックスはどうしても昭和と平成の変わり目というか、昭和天皇「戦争責任」発言と右翼によるテロということになるだろう。その時期の本島氏の言葉が読めるものとして、澤地久枝との対談『昭和を生きて』をマークしておく。

昭和を生きて

昭和を生きて

また、やはり元自民党の政治家、田村元氏が亡くなったという。本島氏よりも2歳年下。
共同通信(『中日新聞』)の記事;


2014年11月4日 11時35分

衆院議長の田村元氏が死去 


 元自民党衆院議員で衆院議長を務め、政界の「寝業師」「仕掛け人」との異名もあった田村元(たむら・はじめ)氏が1日午前8時すぎ、老衰のため東京都内の病院で死去した。90歳。三重県出身。葬儀は近親者だけで済ませた。喪主は妻愛子(あいこ)さんと孫の亘(わたる)氏。12月に「お別れの会」を執り行う。

 1950年慶大卒。参院議員秘書を経て55年の衆院選旧三重2区で初当選し、以来連続当選14回。労相、運輸相、通産相を歴任し、89年6月から90年1月まで衆院議長を務めた。労相在任中は週休2日制の導入に取り組み、運輸相時代には成田空港の開港に尽力した。

 「タムゲン」の愛称で親しまれた。84年の自民党総裁選で中曽根康弘首相(当時)への対抗馬擁立を模索した「二階堂擁立劇」や、86年の衆参同日選に大勝した中曽根氏の総裁任期を1年延長した党則改正など政局の節目で動いた。

 75年には議員団を率いて北朝鮮を訪問し、金日成主席(当時)と会談したこともある。

 衆院議長を退いた90年に自民党最高顧問となり、派閥の解消など党改革を提唱した。94年には死刑廃止を推進する超党派議員連盟の初代会長に就任。小選挙区制が導入された96年衆院選に立候補せず、地盤をおいの田村憲久厚生労働相に譲り、政界を引退した。

(共同)
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2014110490104951.html