”Let It Go”そして

小野昌弘「"Let it go"と「ありのまま」の違い」http://bylines.news.yahoo.co.jp/onomasahiro/20140527-00035720/


アナと雪の女王*1の主題歌「Let it go ありのままで」を巡って。
曰く、


“Let it go”とは、怒りや不安でさいなまれている人に、そんなことは忘れてしまいなさいよ(“forget about it”)、と呼びかける言葉だ*2。だが、忘れてしまえといっても、コンピューターのキーをおして消去するように記憶を消してしまうことはできない。「忘れてしまう」こと「気にしない」ということの中身は、自分自身に怒りや不安を起こさせるような嫌なことを無視できる力を持つこと、耐性力をつけることだ。そうすることで、脳の中には記憶そのものが残っていても、「気にしない」こと、「忘れてしまう」ことができる。これが”let it go”の中身なのだ。

積極的に自分が耐性力をつけることで、嫌なことが自分に影響力を持たないようにする。嫌なことを自分の力でどこかにやってしまう。これはポジティブな力だ。だから“Let it go”には元気づける力がある。この歌が映画の主要な原動力になり、それで歌と映画に爆発的な人気が出たということは、それだけ怒りや不安を感じながら生きている人が多い時代だとも言える。


”Let it go”は「無垢さ」とは無縁の言葉で、その意味で「ありのまま」とはかなり違う。ただ、自分の属性の一部(たとえば体型・顔・性格など)が自分に嫌な気持ちを起こさせる原因になっている場合、それを「忘れてしまう」ことは「ありのまま」の自分を受け入れるということと似ている。実際、日本社会特有の束縛から外れて自分の思うように生きようとすることを、「ありのままに生きる」と言うことがある。おそらく歌の訳者は、こうした意味をくんで訳をあてたのであろう。映画『アナと雪の女王』のエルサは、自分の魔力を(心理学的な意味で)抑圧して生きて来たが、”let it go”を歌い、その魔力をもっているということが普通ではないことを「忘れて」、それが人に恐怖を与えるということを「気にしない」ようになる。つまり、自分のそうした属性を受け入れる。そして、まるで天の岩戸の神話(天照大神が怒りのため岩戸に籠った神話)のように、深い山中に築いた自分の城に籠る。

こう考えてくると、どうもエルサは「ありのままに」なったのではないようだということに気がつくだろう。「ありのまま」の自分を受け入れたひとが、山中に籠る必要はない。映画のエルサは、”let it go”により、もはや自分の魔力を気にすることをやめることで、その力の暗い側面が人に知られることを気にしないようになったまでであり、”let it go”という思い切りにより、むしろ悪魔的になったともいえる。これはエルサの人格成長の最終段階ではない。しかし成長して大人になるためにはどうしても通らなければならない、自分の可能性を積極的に認めるという段階といえる。だからこそ、映画の話は「let it go ありのままに」の歌の場面では終わらない。

なるほど。「抑圧」するのでもなく解離するのでもなく、「気にしない」という仕方で意識する(気にする)よう促す。要するに客観視せよということ。「嫌なこと」が生にトラブルを惹起しているのは、またそれを客観視できないのは自分が「嫌なこと」に対して行っている価値判断や意味づけのせいである。「嫌なこと」を「嫌なこと」として構築してしまったが故の自縄自縛。だから、”Let it go”は自縄自縛を解くために(大まかな意味での)判断停止(エポケー)*3を行え、という呼びかけ。意味づけを一時凍結せよという促し。ということで、やはりfrozen! これは精神分析の教えと一致するだろう。トラウマを無意識に追いやるのではなく意識に呼び出し・統合すること。
では、「ありのまま」は?

ところで日本語の「ありのまま」は、「自分探し」とも関わって、それはそれで重荷になる言葉だと思う。「ありのまま」という言葉に決定的に欠けているのは、社会との関係だ。実際には人格というものは、社会および自分との関係の中で形成されていくものだ。「ありのまま」という言葉はしばしば人格形成の文脈で使われるが、これは根本的に間違っていると思う。人格形成のために自分の中だけで「ありのままの自分」探しをしても、論理的に見つかりえない。もし見つかったとしたら、それは間違いなく幻想だ。こうした作業を厳密にやるひとほど、その行為と結果に落胆することになる。(もっとも、いわゆる「自分探し」については、その見つからないという作業そのものの中に価値を見出す人も多いかもしれないが)
「ありのまま」が「自分探し」に関係するのかどうか。それは「ありのまま」の「あり」の意味によるのではないかと思う。どのような在り(有り)なのか。「ありのまま」の「自分」を「探す」? その「自分」というのは「ありのまま」でありながら、現実に、誰にでもあからさまに見える仕方で存在するものではないだろう。そうであるなら、態々探しに行く必要はない。だって、あなたや私は常に/既に誰にでもあからさまに見える仕方で存在しているではないか。そこに!(Da!) 誰かに現れた、誰かに見られたあなたは「ありのまま」のあなたではないのか。探しに行かなければいけない「ありのまま」の「あり」とは現実にあるということではなく、(あなたが)既に何処かで失くしてしまった、或いは何時の間にか世界に汚染されてしまったと思い込んでいる、あなたの本質=存在ではないのか。本質存在は(存在でありながら)現実にあることはない。言語を介した意味作用によって、或いはマルクス主義者が物象化と呼ぶ作用によって、ある*4と思念されるようになるものなのだ。さらに、本質存在はそのようにして存在を主張することによって、現実存在を隠蔽してしまう。そこに、目に見える仕方であるにも拘わらず、見えない。あり得ない本質存在を探すことによって現実存在を見失ってしまうという構図*5。Stop making sense! 現実存在という意味での「ありのまま」を取り戻すためには、やはり意味作用の一時的な凍結、Let it goが必要になる。
ところで、日本では『追憶』と呼ばれているロバート・レッドフォードバーブラ・ストライサンドが主演したシドニー・ポラック監督の映画、原題はThe Way We Were*6バーブラ・ストライサンドが歌った同じタイトルの歌*7はアカデミー主題歌賞を獲った。これは(過去形ではあるが)「ありのまま」と訳せないだろうか。またビリー・ジョエルに”Just the Way You Are”という曲があって、これは「素顔のままで」と訳されている。
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