- 作者: 吉本隆明,小川国夫
- 出版社/メーカー: 小沢書店
- 発売日: 1998/11
- メディア: 単行本
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佐世保事件と豊川事件に関する藤井誠二氏の文章を読んでから*1、放置していた吉本隆明、小川国夫の『宗教論争』*2を久しぶりに捲ってみた。
「宗教と幻想」*3で吉本は以下のように言っている;
これは吉本の親鸞論の中心でもあるようなことなのだろうけど、藤井氏の文章も含めて、世の犯罪や殺人に関する言説に徹底的に欠如しているのは、この親鸞=吉本的な意味での「業縁」の自覚なのではないかと思ったのだ。この「業縁」の自覚は寛容主義としてのリベラリズム*4と或る根柢的な準位でリンクしていると思うのだが、これについては、ここでは北田暁大の大著『責任と正義』をマークするにとどめる。
カール・バルトに『親鸞論』がありますね。おもしろいことに、ちょうど親鸞は聖書と同じことを言っています。
「わたしの言うことなら何でも従うか」と言うと、弟子が「従います」と言う。それなら、人を千人殺してみろというと、弟子のほうは、けっきょく、自分には器量がないから、一人の人間も殺すことはできない、と答えます。
そういったことについて親鸞も聖書とおなじように、おまえはわたしの言うことには従う、と言ったけれども、従うことができないだろう。――そう言うわけですよ。ここまでは両方とも同じなんですが、あとがちょっと違うように思うんです。
親鸞の場合、人間と人間の関係というのは、そういうきびしいものなんだというふうにはならないで、もし、機縁つまり縁がなければ、人間はどんなに意志しても、だれかに命令されても、一人の人間も殺せるもんじゃない、しかしある契機があるならば、つまり業縁があるならば、そう思わなくても人を殺すことがありうるんだ、という展開にもっていきますね。
人間と人間の関係はすさまじいものだというところへもっていくのと、業縁だ、契機だというところへもっていく、そういう分れ道みたいなものがキリスト教と親鸞教のあいだにはあるように思います。(後略)(pp.86-87)
- 作者: 北田暁大
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2003/10
- メディア: 単行本
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*1:「「人を殺してみたかった」少年が起こした「体験」殺人事件を取材した者として、いま思うこと」http://bylines.news.yahoo.co.jp/fujiiseiji/20140804-00037967/ Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140806/1407340386
*2:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130425/1366912936 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130515/1368634116
*4:リベラル=寛容については、例えば佐和隆光『これからの経済学』を参照されたい。