どっちの三田?

幼年 (講談社文芸文庫)

幼年 (講談社文芸文庫)

大岡昇平の自伝『幼年』*1における所謂「三田用水」の記述を引いて、「三田用水」の「三田」は港区の三田ではなく目黒区の三田だろうと断じたのだった*2。しかし、大岡自身が同じ『幼年』で、


この位置は今日の鉢山町一〇番地である。付近一帯の丘陵は当時「西郷山」と呼ばれていた。西郷従道の持山だったからで、どこかに別邸があったかも知れないが、私たちにはそんな建物はどうでもよかった。現在では細かく分譲されて住宅が立ち並び、谷間の道は商店街になっているが、その頃はこの十字路*3から先は尽く林の中の淋しい道で、家は一軒もなかった。さらに西に進むと、道は少しカーヴしながら上りになる。そして小さな滝がかかっていたのを憶えている。
滝の水はその上の稜線に石で築いた狭い水路を盛大に流れる上水から来ていた。下北沢で玉川上水から分かれて来る枝上水で、農科大学(現、東大教養学部)の方から敷地の東縁を通って来る。ここから先は恵比寿ビール工場、目黒の海軍火薬工場に給水してから、三田の二本榎で終る、いわゆる「三田用水」である。(p.109)
書いているではありませんか。やはり「三田用水」の「三田」は港区の三田?
Wikipediaはこの問題について言及していない*4。「三田用水を歩く」というウェブ・ページを読むと、それとなく港区の三田かという感じになる*5。目黒区のサイト内にある「歴史を訪ねて 三田用水 1」というページ*6では、「三田用水」の「三田」はあくまで目黒の三田であるようだ。冒頭に曰く、「かつて、目黒の農業用水として上目黒、中目黒、下目黒、三田の4カ村の田んぼを潤した三田用水は、昭和49年廃止となるまで300年近くも、区内を流れ続け、目黒地域の開発に大いに役立った」。
大岡昇平の記述に戻ると、「三田の二本榎」というけど、白金というか、現在の明治学院の方にある「二本榎」が歴史的に「三田」に包括されていたかどうかという問題になるが、これについては全然調べていない。