渋谷川(メモ)

野口冨士男『私のなかの東京』*1の第5章のタイトルは「芝浦、麻布、渋谷」。この3つの地名を結び付けているのは「渋谷川*2であった。


田町から京浜東北線に乗ってすぐつぎの浜松町で下車した私は、駅のホームと世界貿易センタービルのあいだを左折して高速環状線の手前を右折した。
逆に左折して線路の下をくぐりぬければ竹芝桟橋と日ノ出桟橋とを結んでいる、東京では勝鬨橋とともにただ二つしかない古川可動橋の地点へ出るし、そこが私のそれから歩こうとしていた古川の現在の河口なのだが(略)ふたたび『江戸文学地名辞典』によって「古川」の項をみておく。

金杉橋の下を流れて芝の海に入る川は、新堀川とも金杉川ともいわれるが、その上流は渋谷川と称し、やがて麻布の四の橋、三の橋、二の橋を過ぎて西流し、一の橋のところで屈折して東に向かい、中ノ橋、赤羽橋*3をくぐって金杉川へつづくのである。赤羽川は赤羽橋あたり名であり、古川はさらにこの上流の俚称である。しかしどこまでが古川で、どこからが赤羽川かという区分は明らかではなく、時には流れ全体の呼び名として、これらの呼称が用いられることもある*4

(略)
浜松町から五之橋のすこし手前まで古川は高速道路の下を流れているので、それを左に観ながら行くと、ほどなく日本橋、銀座方面に通じている第一京浜国道へ出る。金杉橋はその国道の一部をなしているわけで、四隅の角柱のうち手前左側には「古川」、右側には「金杉橋:、品川寄り左側には「かなすぎばし」、右側には「昭和46年6月完成」とそれぞれ左横書きの金属板がはめこまれている。広重の「名所江戸百景」にある『金杉橋 芝浦』をみても明らかなように、この橋はもと古川の最下流にかかって海に臨んでいたもので、河口の右岸は漁師町であった。戦後も地名変更がおこなわれるまでは金杉川口町といったところで(後略)(pp.162-164)

その後、文章というか野口の歩みは「古川」に沿って進み、国鉄渋谷駅のところの「宮益橋」跡へと至るのである(pp.181-182)。
さて、大岡昇平渋谷川の畔で育ったともいえるわけで、上の『私のなかの東京』でも大岡の自伝『幼年』*5が言及されている(p.178、182)。『幼年』の冒頭の文章。因みに、ここでは「渋谷川」は言及されない;

私の少年時代は主に渋谷ですごされた。生まれたのは、牛込区新小川町三丁目であるが、三歳の時、赤十字病院前麻布区笄町(現、南青山七丁目)に引越した。ここは通り一つ隔てて渋谷町羽根沢(現、広尾三丁目)に接している。それから大正十一年までの間に、渋谷の氷川神社付近、渋谷駅附近、宇田川町、松濤へ、合計七度越している。渋谷区を東南の端れから、西北の端れまで移動したことになる。
大正年間に東京郊外で育った一人の少年が何を感じ、何を思ったかを書いて行けば、その間の渋谷の変遷が現われてくるはずである。「私は」「私の」と自己を主張するのは、元来私の趣味にない。渋谷という環境に埋没させつつ、自己を語るのが目的である。(p.7)
幼年 (講談社文芸文庫)

幼年 (講談社文芸文庫)

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140712/1405130782

*2:See eg. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E5%B7%9D

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090905/1252115816

*4:現在の東京都の河川行政においては、「渋谷川・古川は、渋谷区内の宮益橋から天現寺橋間の2.6kmを渋谷川、港区内の天現寺橋から河口間の4.4kmを古川と呼んでいます」ということである(http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/kasen/ryuiki/08/sh2/sh2-1.html )。また、「天現寺から先は地域的にも港区から渋谷区に入って、古川も完全に渋谷川となる」(pp.177-178)。

*5:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120225/1330174519