京橋から深川へ

江東区富岡1丁目/2丁目にある「八幡橋」は「初の国産鉄橋」である。元々は京橋区(現在は中央区)の楓川に1878年に架けられ、「弾正橋」と呼ばれていたが、昭和4(1929)年に現在の地に移設され、「八幡橋」と改名された(功刀俊宏「関東大震災と復興建築」『下町文化』[江東区地域振興部文化観光課文化財係]302、p.6)。
Wikipedia曰く、


八幡橋(はちまんばし)は、東京都江東区富岡にある八幡堀遊歩道にかかる人道橋。元は現在の中央区宝町の楓川に架橋されていた弾正橋(だんじょうばし)であり、「旧弾正橋」「元弾正橋」とも称される。

鉄を主材料として造った鉄橋としては日本最古のものと言われ、国の重要文化財に指定されている。名称は橋の西側に在する富岡八幡宮に因む。(注: この橋の鉄は「鋼」ではない。現在造られている「鉄橋」はほぼ全て、鉄の中でも「鋼」で造られた「鋼橋」である。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E6%A9%8B


明治11年1878年)11月に京橋区の楓川に、アメリカ人技師スクワイヤー・ウイップルの発明した形式を元に工部省赤羽分局により製作、架橋された。当時は橋幅は9.1m(5間)あったと記録に残る。架設経費は4058円。付近に島田弾正屋敷があったため、弾正橋と称された。当時、馬場先門から本所や深川を結ぶ主要路であったので、文明開化のシンボル的存在の鉄橋であった。

しかし、大正2年(1912年)の市区改正事業により、北側に新しく弾正橋が架橋されたため、「元弾正橋」と改称され、さらに大正12年(1923年)の関東大震災後の震災復興計画によって廃橋となったが、その由緒を惜しんで現在地に移設。当時、橋下は八幡堀という河川であったが、後に埋め立てられ、現在のような人道陸橋となった。

昭和52年(1977年)6月27日に国の重要文化財に指定、また平成元年(1989年)には日本ではじめて米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が贈られた。

See also


文化庁「旧弾正橋(八幡橋)」https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/121364
朽木誠一郎*1「存在しない川に架かった〝紅い橋〟の正体 密かについた「菊の紋章」」https://withnews.jp/article/f0220613001qq000000000000000W0bx10201qq000024814A
八幡橋 〈旧弾正橋 東京都江東区〉」https://blog.goo.ne.jp/benten439/e/0a3c37641e8b3154b9d096c85dd6fa63


「楓川」の念み方について、Wikipediaは、

「楓川」の読み方については、「かえでがわ」と「もみじがわ」が混在している。「紅葉」と「楓」が縁語であること、紅葉川が江戸城紅葉山と結びつく重みのある名であること、本来の紅葉川が重要度を失いつつ江戸時代後期には埋め立てられ消滅する一方で、楓川が重要な水路として残ったことが混用の原因という推測は可能である。

中央区が管理する旧楓川沿いの公園や区営住宅が「かえでがわ」と読まれる一方、中央区教育委員会が設置した看板では「楓川」に「もみじがわ」と振り仮名が振られ、中央区観光検定公式テキストでも「もみじがわ」の読みを採用している。かつての楓川に並行する、昭和通り都心環状線の間の街路(日本橋郵便局裏から久安橋まで)には、2003年に中央区によって「江戸・もみじ通り」の愛称が定められている。

1908年に楓河岸付近の坂本町(現在の日本橋兜町)に設立された「東京市日本橋区楓川専修女学校」は、その後数度の校名変更を経て、1946年に「東京都立紅葉川高等女学校」と改称している(翌年に東京都立紅葉川高等学校となり、現在は江戸川区に移転している)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%93%E5%B7%9D

と記述している。

渡辺功一「船入運河 楓川」https://wako226.exblog.jp/17977693/


曰く、


楓川は、日本橋川*2の江戸橋に近接した現在の兜神社付近から南へ分流して、三ツ橋で京橋川・桜川・三十間堀川と合流する1、2kmの船入運河である。切絵図に見える楓川には、海賊橋、新場橋、越中殿橋、松幡橋、弾正橋の五橋が架けられている。日本橋川から江戸市中に物資を運びやすい楓川の周辺には、多くの商人や職人が住む。楓川沿いには河岸や蔵が立ち並び、近代に至るまで経済の中心として栄えた。