大岡/広田

広田弘毅*1という鍵言葉で検索して拙blogをご覧になる方というのが時々いらっしゃるようだ。
ところで、大岡昇平広田弘毅の長男である「広田弘雄」と小学校の同級生同士だった。『幼年』*2から;


(前略)一つの名前の中に「広」と「弘」が同居しているから、よほど「ひろい」ことが好きなお父さんなのだなと思った。昭和に入って総理大臣・広田弘毅の名が新聞に出るようになった時、世の中に似たような趣味を持った人がいるものだと思った。すぐには広田君と結びつかなかったのだが、やがて家族構成が紹介されるに及んで弘雄君がその長男であることがわかった。昭和八年頃、溜池の街頭でばったり会って立話したことがある。現在、国際商業会議所事務総長だが、一九六二年、私がパリに行った時は、東京銀行のパリ支店長だった。為替関係で相談に乗って貰うことができ、奥さんといっしょにパリ郊外のシャンティの城館を見に連れて行ってくれた。その後も東京のパーティなどで時々顔を合わせることがあった。
広田君は小柄で端正な顔立をしたおとなしい子供だった。成績はクラスで一番、相撲が強かった。どうして広田君と親しくなったのか、記憶にないが、私は劣等生ながらどうにか級の中以上にいたらしいから、成績の上位の者で自然にグループができたのだろうと思う。
広田君の家は宮益坂を少し上ってから、左に入る横丁を原宿の方へ行ったところにあった。青山車庫の方から降りて来る道との交叉点を少し右へ行き、さらに左へ曲ったところにあった。現在の神宮前五丁目三六番地、当時渋谷町青山北町七丁目二番地である。
宮益坂から曲った道は、青山大地の斜面を横に行くことになる。右手は少し高くなっていて、梨本宮邸の長い塀に沿っている(この邸の中にも一人同級生がいて、一度遊びに行ったことがある。黒い塗料を塗った大きな冠木門のくぐりを入ると、中は少し登り坂の石畳になっていて、右手に厩があり、その子の家は左手にあった。名前を私は忘れていたが、広田君によると於久田敏明といって宮家の別当の子だったという。四年前に死んだ)。左側国電線路の方は、道から少し下がってい一面の田圃で、国電の土手がよく見えた。広田君の家の方へ曲った右手は、青山通りから連続した市電の車庫の敷地だった。敷地のはずれで、やたらに木が茂っていて、池があった。青山通りの方から電車軌道が来ているのは、車掌や運転手の教習用で(現在も都交通局の敷地で、バス運転の教習所がある)時々電車が廻って来て停まる。見習車掌が、「チン、チン、動きまあす」と怒鳴って、また動き出す、というような場面が見られた。
(略)
広田君の家はその市電車庫に接して新しく開けた住宅地に建った二階家だった。道から大谷石を二個ばかり重ねて地盛りし、生垣の中から植えたての芝生が見える家だった。静子さんという姉さんがいたと思っていたが、これは私の記憶違いで、静子さんはお母さんの名、姉さんは千代子さんだった。お父さんは私が遊びに行く時は、いつも家にいなかったので、どこか外国へ単身赴任中と思っていたが、これも思い違い、当時は外務省通商局の課長だったという。
渋谷から青山通りへつながる市電の路線は、赤坂見附から三宅坂を経て、桜田門、日比谷、築地へ向う。兜町に勤務先を持つ私の父が使っていたのはこの線だが、同様に広田君のお父さんも、青山七丁目からこの線に乗り、霞ヶ関へ通っていたのである。
これらの細目は、こんど広田君と会って思い出を語り合ううちにはっきりして来たことである。広田弘毅は申すまでもなく近衛内閣の外務大臣で、戦後不法な手続きによって、A級戦犯として刑死した。私達はこのことについては一切話をしないが、広田君とはフランス語の縁でもつながっているし、文学についても話の種は尽きない。(pp.119-122)
幼年 (講談社文芸文庫)

幼年 (講談社文芸文庫)