「ライトでニュートラル」?

承前*1

矢萩邦彦*2「「外国語使いすぎ」でNHK提訴−カタカナ語について考える」http://bylines.news.yahoo.co.jp/yahagikunihiko/20130627-00026016/


曰く、


「ケアする(される)」のと「介護する(される)」では、前者の方がイメージが良いと感じる方も多くいらっしゃると思います。例え同じ意味だとしても、外国語にすることで重さや明るさなどが変化します。たいていの場合、ライトでニュートラルなイメージになると思います。

今書いた「ライトでニュートラルなイメージ」を日本語にすると「軽く中立な印象」になりますね。これはもう伝える側が自覚して、どちらのニュアンスで伝えたいのか、ということだと思います。無自覚でなければ効果的に伝えるための技術になります。文字の場合でも、意図的にバランスを取ることで、読みやすく伝わりやすくなると思います。

そうなんだ! ただ、そうだとして、それは、後の方で矢萩氏が指摘している、(外来語の場合)「その言葉に対応する概念が漠然としていて、使う人によってズレたイメージを持ったままで生徒に伝えるケースを散見する」という問題点の反映なのではないか?

また外国語にすることで別のイメージサークルを持つこともあるので、辞書的に同じでも使い分けていることもあります。例えば、予備校や塾では多くの場合「テキスト」と呼び、学校では「教科書」です。誰も明確に決めてはいないですが、慣習としてテキストと言えば塾や予備校のもので、教科書と言えば学校のものをイメージする方が多いのではないかと思います。
これは教科書検定制度の効果。この制度の範囲外である大学の教科書については、こんな使い分けはない。日本語の使い分けとしては、テキスト/テクスト問題の方が重要か。