みんなやんきー

斎藤環*1「ヤンキー的な気合主義が蔓延している」http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130317-00013068-toyo-bus_all


斎藤さんによれば、「体罰」の横行も*2AKB48丸刈り事件も*3、「生活保護費の切り下げ」も、「日本維新の会」も、さらにはアベノミクス*4、さらには日本にヒッキーが多いのも、みんな「ヤンキー的事象」の一つだということになる。斎藤さんが指摘する「ヤンキー的事象」を少し抽象的に言い換えれば、「精神主義」(「気合主義」)、「反知性主義」、「集団主義」、「バッドセンス」(悪趣味)ということになり、つまりは〈日本的なるもの〉と日本の内外から肯定的或いは否定的に言われてきた事象にほかならない。つまり「ヤンキー」は日本人或いは日本文化と限りなく等しいものとなる。あんたも「ヤンキー」、わたしも「ヤンキー」ということになる。ここで思い出すのは故ナンシー関の「ヤンキー」論だろう。速水健朗氏によれば、「ナンシー関は漠然と日本人の心性に隠れるバッドテイストなものをヤンキーとしていたにすぎない」*5。こうなると、「ヤンキー」というのがひとつのマジック・タームというか零記号化してしまうのだ。それが、日本文化・社会の考察・理解に対する妨げになりうるというのがあるのだが、実践的・政治的準位においても、ここでは「ヤンキー」=日本に対しては、全面的否定か全面的肯定かということになりかねず、豊かで責任ある態度を採るのが難しくなるのだ。斎藤氏も「近代的な個人主義を再インストールすること」というベタな処方箋しか提示していない。勿論さらに詳論するならば、斎藤氏はラカン派であるので、象徴界の話とかに入るのだろうけど、このベタさは「ヤンキー」=日本文化というのっぺらぼうな定義故であるところが大きいんじゃないだろうか。
さて、「ヤンキー」文化は、たしかに斎藤氏が挙げた「気合主義」だとか「反知性主義」だとか「バッドセンス」とかに(少なくとも)親和性は持っている。そして、速水氏がいうように「国内のコンテンツ市場を見てみると、ヒットしているドラマ、映画、小説、音楽は、明らかにヤンキー層をターゲットにした作品である」、つまり「ヤンキー」はメジャーなのだということは認めなければならない。しかし、その一方では、


(前略)「ヤンキー」的なイメージや文化商品は「ヤンキー」自身がいなくても存立するし、「ヤンキー」以外の人々によっても消費されうる。「ヤンキー」的なイメージが充満しているとしても、「ヤンキー」を社会的に統合する制度的仕掛けは変容している。それは地域社会における若者組的な仕掛けの衰退であり、それを支えた自営業の衰退とそれに伴う地域社会の変容である。そもそも「ヤンキー」にとって低学歴とか前科といったものがそれほどの汚点にならなかったのは、「ヤンキー」が基本的に自営業の若旦那であり、あまり就職の心配をしなくてもよかったからだ。若い頃は悪さをしても、そのうち歳を重ねれば、商売を継いで旦那となり、旦那衆として地域社会でもそれなりの役割を果たすようになる。これは上層「ヤンキー」といえるかも知れないが、そうではない下層「ヤンキー」にしても、ガテン系職人の見習いから出発して、やがて熟練し、さらには独立して親方になるというコースが開かれていた。(後略)
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090702/1246567126
とも考えている。というか「ヤンキー」の衰退と蔓延は同時的なものであるといえるのではないか。まあ斎藤氏も「かつては不良経験を持った人しかヤンキーになれなかったが、今や不良経験というコアなものを抜きに、バッドセンスだけを引き継いだヤンキー層が広がりつつある」とは言っているのだった。