「モード、もう魅力ない?」(鷲田清一)

Via 経済思想先生

『朝日』に載った鷲田清一先生へのインタヴュー;


モード、もう魅力ない? 哲学者・鷲田清一さんに聞く


 1980年代から90年代、身体論などの視点から優れたファッション論を自在に展開した哲学者の鷲田清一さんが最近、モードについてあまり語らなくなった。アンチ・モードも出尽くし、画一化・保守化にひた進む昨今のモード現象は、もう論評の対象としては魅力や意味を失ってしまったのか。京都の研究室を訪ねた。

 ――最先端ファッションのモードに距離を持ち始めたのはいつごろですか。

 「90年代半ばまで、ファッションショーなどは何とか見ていました。ただ、90年代前半にリアルクローズやぼろぼろの重ね着スタイルのグランジユニクロなどが次々と出て来た頃から、モードの水準が変わってしまったなという感触があった。1世紀続いたモードという現象がもう終わるのかなと。自分の関心の対象も、作り手から一般の人たちに移りました。その頃、山本耀司さんも『かったるくなってる』と言ってましたね」

 ――モードはどのように変質し、またその要因は何だと考えますか。

 「60年代から80年代末までずっと、日本にはある意味とんがったファッションが存在した。たとえばミニスカートによって女性は大股で歩くようになり、男に品定めされずに自分の体と対話しながら服を主体的に着るようになった。男性もがんじがらめの性意識から少しずつ解放され、それがヒッピーなどにつながった。80年代のDCブランドブームでは、自分のライフスタイルや価値観をモードという記号で競い合った。しかし、90年代にバブル経済がはじけて人々の消費感覚が変わり、モードや新しさへの強迫観念から下りて、気張らずに服と戯れるようになった」

 ――服が自己表現に不可欠な物でなくなったと。

 「右肩下がりの時代にはもう、“ネクストニュー”という感覚に心はなびきません。心地良い暮らしのために、服は食べ物や本、友達、環境への意識などと総合的に自主編集していくための一つに変わってきた。モードに振り回されることが少なくなった分、衣食住ともに、自分の心と体に聞いたささやかな感覚を大事にするようになってきた。まっとうで、素材にも敏感で、いい感じです」

 ――その半面、モードはつまらなくなったと。

 「かつてモードを支えていたのは、作り手を含めて、群れず、流されず、社会との違和感を大事に示していこうとする人たちでした。江戸時代でいう“かぶく”人たちです。いま、かっこよさの基準は目立たなくていい、服で社会の違和感を示さなくていいという感じでしょ。以前はモードが社会をぐわっぐわっとうねるように動かした。そういう意味で今は確かに空気がゆるい」

 ――ファッションにつきものの軽さ、軽薄さもなくなってきた?

 「服ってこんなにお行儀が良くていいのかと。服飾の歴史の流れから見れば自然なのかも知れないけれど、やはり悪趣味な物、B級も必要なのでは。もっと刺激してよ、突っかかってきてよ、とね」

 ――鷲田さんはその時代がはらむ先端的な感覚の象徴としてモードを研究してきました。もうモードが時代をリードすることはないと考えますか。

 「どんな分野から何が出てくるか、あるいは時代がそんな流れ方をしないのか、誰にも見えません。ふと見過ごしてしまいそうなところに意外な種が落ちているかも知れませんね」

 (聞き手 編集委員・高橋牧子)

    ◇

 わしだ・きよかず 1949年、京都市生まれ。哲学者、大谷大学教授。著書に「モードの迷宮」(ちくま学芸文庫)、「たかが服、されど服」(集英社)などがある。
http://www.asahi.com/fashion/beauty/TKY201204300205.html

この記事に附せられた、本棚を背景とした鷲田先生のポートレイト。本棚がすかすかなのは何故?
鷲田先生とモードということで、やはり『モードの迷宮』と『ちぐはぐな身体』をマークしておく*1。また鷲田清一横山ノックの類似性(?)を指摘した金井美恵子先生の『目白雑録2』も*2
モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

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ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)

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目白雑録 2 (朝日文庫)

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