新劇/アングラ(メモ)

戦後演劇―新劇はのりこえられたか (朝日選書)

戦後演劇―新劇はのりこえられたか (朝日選書)

最近映画におけるサイレント/トーキーという対立に触れたことがあったのだが*1、そのとき、演劇においても言語(科白)か身体かという対立があったなと思った。それで、かなり以前読んだ菅孝行『戦後演劇』(朝日新聞社、1981)を捲ってみる。所謂「新劇」と1960年代から80年代にかけて「アングラ」とか「小劇場」と呼ばれた演劇の潮流の差異について。


新劇は、演劇でありながらまだその感性のベースを書き言葉に従属させていた。だから、戯曲の世界がつくられ読まれるところから新劇における「劇」は、はじまる。新劇のあとにやってきた新しい演劇は、やっと日本の現代演劇を視聴覚表現として独立させた。たとえば紅テントでは、異貌の肉体が観客の面前に姿をあらわす瞬間に、はじめて演劇がはじまる。それは、演劇であるために書き言葉によって牽引されることを必要としない演劇であることによって、新劇と区分された。
また、こうもいえる。新劇においては、戯曲が劇の世界を定めれば、その余のことは後からついてくるものと暗黙に了解されており、紅テントにおいては、異物としての肉体が観客(他者)の前におりたてば、その余のことはあとからついてきたのである。この、ふたつの演劇意識の決定的不協和こそが、無言のうちに、演劇におけるパラダイム転換の事実を人々に伝えたのであった。(p.30)

そもそも新劇においては、戯曲の世界に文字の文化として成立したものが、俳優の身体所作によって劇場の舞台に移しかえられることにおいて、演劇は成立した。観客は、舞台表現を通じて、演出の思想や戯曲の世界を読解することにおいて、演劇にかかわるのであった。演技や演出は、原則的には戯曲の作品世界にどれだけ忠実かつ精密に舞台表現たらしめることができるか、という基準によって評価されるものであった。
これに対してテント・小劇場の演劇では、あとにも先にも劇場における俳優の身体表現によって生きられたものだけが演劇であり、観客は俳優の身体所作を読むことにおいて演劇にかかわる。舞台の上の俳優の身体所作以外に、演劇は存在しないのである。(略)
(略)新劇においては、俳優の身体は戯曲に従属し、俳優の「精神」に従属する道具であった。テント・小劇場の演劇においては、俳優の身体は道具であると同時に主体であった。俳優の精神も、演出も戯曲も、俳優の精神において生きられるかぎりにおいてのみ、演劇でありうるものとなったのである。(pp.200-201)
「新劇」の「新」である所以を理解するためには、「新劇」の開祖である小山内薫にまで遡らなければならないだろう;

さて、二〇世紀の初頭、小山内薫が近代劇運動を創設しようとしていたころの日本の演劇は、どのような共同了解の上に成り立っていたのだろうか。当時の代表的演劇とは、「演劇改良運動」をくぐりぬけ、それを通じて伝統と近代化のバランスをとり戻した近代歌舞伎であった。そもそも、近世以前からの伝統的演劇には、「官許」の文化として近代に生きのびたこの大劇場演劇の系譜のほかに、数々の小芝居、旅芝居の流れがあった。そして当時もまだ、そうした芝居が根だやしされてしまったわけではない。しかし、明治維新以後、強力に進められた民衆風俗の淘汰の過程で、大芝居は伝統芸能として保護育成され、その他の系譜は次第に衰滅への道を歩んでいた。むしろ、近代歌舞伎に対抗する新たな流れとしては、壮士芝居からおこった新派の系譜が人気を博するようになっていた。少なくとも、大都市的な文化(あるいは風俗)の文脈では、近代歌舞伎と新派が並立して、当時の演劇を代表していたといえる。
これらの演劇は、スター中心主義の演劇であった。芝居とは人気俳優の美貌と芸の見せものであり、台本は美貌と芸を強く印象づけるために必要な筋書きにほかならず、演出もまたそのための補助手段にすぎなかった。常連の客にとって、劇場とはあらかじめ知っている名優の魅力をたしかめるたのしみの場所であり、はじめて劇場に足をはこぶ客にとっては、そこでまだ見ぬきらびやかな光景にふれることこそが目的であった。文字どおり芝居は「見物」するものであった。近代以前の芝居のたのしみとは、禁忌の場所に足をふみ入れる戦慄を伴うものであり、それはどこかしら道の土地への旅にも似るところがあったが、明治時代の芝居見物には、それほどの禁忌もなく、したがって恐れも期待も、それほど起伏のはげしいものではなかったといえよう。だからそれは、既知の場所への観光とかぎりなくちかしい。
小山内は、こうした演劇のありかたを演劇の堕落とみなした。小山内が考えた近代演劇とは、ちょうどこの時期の大衆娯楽として定着していた演劇の通念の逆をゆくもの、と考えればよい。小山内にとって、演劇とは戯曲作品の世界を表現するものであった。なによりも戯曲が優先し、それを正しく表現する媒介として演出があり、演出にもとづいてはじめて演技がある、というのが小山内の演劇観である。また小山内は、歌舞伎や新派を支える大劇場の興行形態に対応して、会員組織によって支えられる「無形劇場」を構想した。小山内の念頭にあった演劇モデルは、ヨーロッパ近代演劇のそれであったことはいうまでもない。
小山内の前にあった演劇が、当時の都市富裕層にとっての大衆的な娯楽であったとすれば、小山内の構想した演劇は先進的知識層にとっての芸術であった。前者が(形態的に近代化されているとはいえ)、その意識において前近代的な性格を色濃く残した「芸能」であるのに対して、後者は、ヨーロッパ的近代精神を演劇を通じて根づかせようとする文化運動であった。(pp.13-15)
「近代演劇」(「新劇」)における「戯曲」の特権性は近代音楽(クラシック、ポップス)における作曲家の特権性(Cf. 渡辺裕『聴衆の誕生』)とパラレルであるな*2
聴衆の誕生―ポスト・モダン時代の音楽文化

聴衆の誕生―ポスト・モダン時代の音楽文化

菅孝行の本に戻ると、「テント・小劇場の演劇に対する反動」(p.255)としての「つかこうへい」への言及で事実上締め括られているのだが、そのつかこうへいも既に黄泉の国だったのだった*3