芝居小屋の鷗外

神山彰「今と違う演劇の通念」『毎日新聞』2022年1月9日


森鴎外の時代と現代とでは、「演劇という通念が全く違う」という。


今では観劇と言えば、切符を持って開演時間に合わせて電車やバスで劇場へ行き、水洗トイレへ立ち寄って空調設備整う客席に入り、椅子に座って見ると無意識のうちに思っている。しかし、鷗外が演劇論を語り始めた時期には、それらは何れもなかった。明治末の有楽座や帝劇以前には、芝居好きの鷗外一家は劇場に行く際、「芝居茶屋」を通しての享楽気分で赴き、ガス灯のほの昏い舞台を見ていたのだ。鷗外の劇場論はそういう前提がないと理解し難い。

「近代演劇」は明治末(二十世紀)からの禁欲的で堅苦しいイメージで語られる。だが、十九世紀の明治の生活感は、当然江戸と深く繋がっており。芝居は遊戯感覚と切り離しては考えられない。鷗外の人脈でも、饗庭篁村や齋藤緑雨ら「根岸党」の人々との交流はあまり語られない。それは近代的価値観で語りやすい「意義」や「成果」がない世界だからだ。そこには、「文学」「芸術」「演劇」という用語が確定する以前の「演芸」が広義の意味を持った時代の遊戯感覚がある。
私には、鷗外の演劇は、そういう気配や心性なしに考えられない。鷗外が神童といっても、幼児期の読書は江戸期の産物だったのも忘れてはならない。鷗外にとって幸せなのは、その心性を共有できる弟篤次郎(筆名・三木竹二*1が身内にいた事である。根岸党の面々とは違い、肉親で医師という科学的精神も身につけた竹二は、鷗外にとって妻や母以上に、無言で打ち解けられる代え難い存在だったろう。

竹二は「近代演劇批評の確立者」と紋切り型で解説される退屈な人ではない。秀才だが、欠点の多い、愉快な人だった。樋口一葉は、竹二を今で言えば、軽い、お調子者という風に書いている。早逝したため、身内では母峰子の日記、妹小金井喜美子の追想のほかには、多くの回想を残した鷗外の子どもたちでも、長男於菟にしか濃密な思い出がない。於菟の追想に残る竹二の剽軽で愉快な姿を見ると、自分にはない美質を備えた弟を見て、鷗外も屈託なく、喜んだに違いないと思える。
竹二夫人久子も芝居好きだけでなく、「真如」の筆名で劇評も残したが、森茉莉小堀杏奴の回想によれば、役者や鷗外の妻志げの真似などをする愉快な人だった。森久子も岡田八千代長谷川時雨と、明治期女性劇評家の三幅対だったのだから、再評価されていい人だ。