田原総一朗の影の下で?

現代日本の「テレビ政治」」http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20120304


「誤解を恐れずに言えば、この10数年を振り返ると、テレビの政治報道番組や討論番組などで主流となってきた主張の通りに、全体として政治が動いてきた印象がある」という。そして曰く、


テレビは既に古いメディアであるかのように言われることが多く、確かに産業としては縮小・衰退局面に入りつつあるのかもしれないが、現実政治においては決してそうではない。若い世代の「テレビ離れ」が指摘される一方で、人口層が多く政治的にもヴォーカル・マジョリティである年金生活者層においては、むしろ「テレビ漬け」とも言える現象が進んでいる。「テレビばっかり見てないで・・・」という、かつての親の子どもに対する小言は、今や高齢者層にこそ当てはまる言葉になっている。

 1990年代初めくらいまでは、テレビで政治動向が理解できるということは基本的になかった。「利権政治家」と呼ばれてテレビで連日叩かれている人物が、いざ選挙になると圧勝で当選というのは、田中角栄に限ったことではなく、どの地域でも極めてありふれた光景であった。1989年の消費税導入を巡っては、テレビでは賛成派はほとんど「非国民」の扱いであったが、自民党も選挙で敗北したとは言えその政権基盤を揺るがすほどのものではなく、今から見ればごく限定的なものであった。こうした時代にあっては、新聞やテレビを見ても政治を理解できるということは基本的になく、むしろ政治を理解することとは、地方で隠然たる声望を持った政治家や、その背後にある土建業界や農協、後援会などの地縁組織といった利益団体の動向と、そうした利害関係者を調整していく官僚組織の役割を観察していくことにほかならなかった。

たしかに。ただ1989年の「消費税」選挙における社会党のブレイクについては、「仕事を通じた利害関係の網の目から「自由」」であった主婦層に対する「テレビ」の効果は考慮するに値するのでは? つまりこの考察にはジェンダー的なバイアスがかかっている。
さて「テレビ政治」ということだけど、例えば橋下徹なんかは〈TVが産み出した政治家〉といえる。本人も島田紳助に対する感謝の気持ちを忘れていないように*1、橋下がTVに出演することがなかったら「ハシズム」も誕生することはなかったわけだ。その端緒は多分1980年代後半に始まる『朝生』なのだろう。それまでも政治討論番組というのはあったけれど、どれもマイナーなものでしかなかった。『朝生』によって政治討論というか床屋政談のエンターテイメント性が発見されたといえる。『朝生』は深夜番組なのでその影響は限定的なものだったかも知れないが、その後、日曜午前中の『サンデー・プロジェクト』が始まった。この番組は島田紳助をただの漫才師から〈司会者〉へとブレイクさせる契機となったのであるが、1990年代以降に〈政治改革〉とか〈政界再編〉のかけ声の下に有名になった政治家に『朝生』やこの『サンデー・プロジェクト』などの常連が多いことは論を俟たない。例えば舛添要一なんか、『朝生』に出ていなければ、或いは田原総一朗*2がいなければ、政治家になれなかったのではないか。それから、あの植草一秀にしても、私があの顔と名前を初めて知ったのは『サンデー・プロジェクト』においてであった。
「テレビ政治」というのは多分その通りなのだろうけど、それは「高齢者層」にのみ当て嵌まることではないだろう。TVの政治的影響が強まったのは、ここで言われているような人口学的原因のみによるものではない。1990年代以降、新自由主義へのシフトに伴って、それまでの政治家の支持基盤だった様々な「利益団体」が衰退し、さらにポピュリズム的動員のためのスケープゴートとされることが多くなったということがある。それから、TV(或いは大新聞)かインターネットかということだけど、そもそもインターネットで流れている情報の多くはTVや大新聞に由来するものだ。従来からのTVや大新聞に対抗しうる〈ネット・ジャーナリズム〉なるものが誕生しているとも思えない。ネットに可能なのは(そして期待されるのは)TVや大新聞に対する一種のメタ・メディアになること、反省作用として機能することだろう。
また

自分はメディア論は全くの不案内だが、今の日本で研究対象として注目されるべきメディアがあるとしたら、ツイッターフェイスブックなどではなく、やはり依然としてテレビ(あるいは大手新聞)であることは疑い得ないと思う。「アラブの春」と「フェイスブック」の関係を指摘する解説に見られるように、新しいメディアの出現が政治・社会の変化をもたらしたと理解したがる人は少なくないが、正直なところ「それ本当かよ」と思うことが多い。むしろ、まずは社会に深く根を張った既存のメディアの役割の重要性という、当たり前の話から始めるべきだろう。
ここで重要なのはTV(或いは大新聞)かインターネットかということではない。寧ろマス・コミュニケーションかパーソナル・コミュニケーションかということ。SNSというのはパーソナル・コミュニケーションとしての性格が強い。しかしながら、「コミュニケーションの二段の流れ」論に見られるように*3、「メディア論」ではそもそも従来からマス・メディアが個人に対してダイレクトに影響を与えるとは考えられてはいなかった。マス・メディアのメッセージの受容は事前にもパーソナル・コミュニケーションの影響を受け、事後的にもパーソナル・コミュニケーションを通じて強化されたり相対化されたりする。その意味では「ツイッターフェイスブックなど」というのは目新しいものではないのだ。もしベタな意味でTVの影響力が強くなっているとしたら、それは寧ろパーソナル・コミュニケーションというか、日常的な対人関係の変容に関わっているといえるだろう。マス・メディアが個人に無媒介的な影響を与えるのはパーソナル・コミュニケーションが極度に乏しい〈孤独な個人〉に対してであるからだ。