平松剛「サブカルの魔窟「中野ブロードウェイ」 アウトロー建築の魅力」『毎日新聞』2012年2月22日夕刊
少しメモ。
中野ブロードウェイの敷地は、元は低い木造家屋の密集する地域で、駅前から続く商店街がそこで行き止まりになってしまうものだから、地元有志の発案で、ここをまとめて地上げし、ビルを建て、一階に裏の早稲田通りへ抜ける通路を貫通させようという計画だった。ショッピングセンターは、普通、そこを目的地、到着する場所として造られるけれど、ブロードウェイは名称どおり、まずは人の通行する街路であり、ついでにお店も覗いてもらおうという、つまり道路沿いに商店街が発達するメカニズムを組み入れ、立体的に積み上げた形式である。
資金難で事業が頓挫した後、宮田慶三郎社長の開発業者・東京コープが引き継ぎ、建設されたのは1966年。東京オリンピック(64年)を経て大阪万博(70年)へと至る戦後の日本に最も活力が漲っていた時代である。都市は高層化へと向かっていた。建物の高さを31メートル以下に押さえる建築基準法の制限が撤廃され、超高層を許す代わりに、建物全体の延べ床面積を規制する容積地区制が65年から施行された。霞が関ビル(68年)がその象徴だが、ブロードウェイはトレンドの逆を行く。郊外の中野は容積制の導入が68年まで遅れた。その間隙を狙い、あえて旧基準の高さ31メートルで敷地いっぱいに建てたのである。新基準に比べ、なんと約1万平方メートルも床面積を大きく確保でき、その分住戸と店舗の分譲価格を下げられ、東京コープにとっても入居者にとっても得だったからだ。天井が低いのは31メートルに10階分を押し込んだせいであり、廊下が狭いのは店舗の方の面積を優先させたためだ。とことんコストパフォーマンスを追求した魔窟は、完成時にはちゃんと合法だったけれど、たちまちアウトローになっちゃった。