「香港」なの?

快楽の館 (河出文庫 ロ 2-1)

快楽の館 (河出文庫 ロ 2-1)

アラン・ロブ=グリエ*1の『快楽の館』を読了したのは先々週のこと*2
この小説の舞台は、香港、まだ人力車が活躍していた1960年代の香港ということなのだが、果たしてそうなのか。
例えば、


(前略)ぼくは彼女にいとまを告げようとして立ちあがったが、少々ガラス・ケースに近づきすぎる過ちをおかしてしまう、象牙でできたふたつの小さな人物像が飾ってある陳列棚に、なにげなく目をやる。ひとりぼっちになることを真底からおそれているレディ・アーヴァは、なにがなんでも話題を探そうとして、この彫像は香港からきたものだと言い、香港に行ったことがあるかとぼくにたずねる。もちろんぼくは「ええ」と答える。誰しもが香港を知っている、その港、周辺の数百にものぼる小島、円錐形の山、海中の堤防にのびている新しい飛行場、ロンドン式の二階バス、十字路のまんなかで警官が乗っかっている寺院の塔のような物見櫓、九竜−ヴィクトリア間のフェリー・ボート、大きな車輪の赤い人力車、その人力車の緑色の幌は乗客の上におおいかぶさる庇をなしているが、滝のような驟雨から客を防ぐには不十分だ、しかしそんな雨でも裸足の車夫はスピードを落とさない、黒い桐油布の褲子をはいた群衆は、ちょっと前まで日除けがわりにしていた大きな雨傘をとじ、いまや、アーケードの下に避難する、長い街路には歩廊があり、その太い四角の柱は上から下まで四つの面とも、大きな漢字の縦の看板でおおわれている、黄色いバックに黒、赤のバックに黒、白のバックに赤、緑のバックに城、黒のバックに白といった看板である。清掃夫はアーケードの下にやや退避して柱に寄りそう、なぜなら上の階からぽたぽた落ちる水(歩廊の上には洗濯物でいっぱいだ)が平べったい円錐形の麦藁帽にしみとおりはじめているからだ。彼が手に持っている一枚の新聞は、もうずぶ濡れである。その新聞をとっくりと眺め、挿絵にものめずらしいものは何もなくなったので、捨て去ることにして、無造作に溝のなかにまた掃き落としてしまう。(pp.125-126)
「香港に行ったことがあるか」という問いが香港において問われることはありえないだろう。また、「 誰しもが香港を知っている」ような香港についての記述。
また、

大広間をあとにしてぼくは人気のないほかの部屋をいくつも横切る。召使いたちは姿を消してしまったかのようだ。そしてぼくは一人で正面階段をのぼり、館の女主人のいる部屋に赴く。彼女は四柱式の大きなベッドに横たわっており、そばには欧亜混血の侍女が一人つきそっているだけだ。ぼくが入ってゆくや、すぐさま侍女が黙って立ち去る。ぼくはイーヴァにたずねる、医者の診断はどうだったか、どのくらい眠ったか、今夜は気分がいいかなどと……。彼女は血の気の失せた唇で放心したような微小をつくってぼくにうなずき、そして目をそらす。われわれはほかのことは何も言わずに、かなりの時間こんなふうにしていた、彼女は天井を見つめ、ぼくは依然その枕頭に立ったまま、やせ衰えた顔、深くきざまれた皺、白くなった髪などから目をはなすことができないでいる。しばらくたってから――おそらく長い時間だろう――彼女はぼくに語りはじめる、自分はベルヴィルの教会の近くで生まれた、自分の名はアーヴァでもイーヴァでもなくジャクリーヌだ、自分はイギリスのロードと結婚したこともないし、中国に行ったことも、香港の豪華な淫売宿に行ったこともなく、人から聞いた話にすぎない、などと言う。それにいまでは、話の舞台はむしろ上海ではなかったかしらといぶかってさえいる、バロック調の宏壮な邸宅、賭博場、ありとあらゆる娼婦、凝ったレストラン、エロティックなショーを催す劇場、阿片窟などがある。それは《ル・グラン・モンド》*3……なにかそういう類いの名前だ。彼女はおそろしくうつろな顔、ひどくぼんやりとした目をしているので、まだ意識があるのだろうか、すでに錯乱しはじめているのでなかろうかと、ぼくはいぶかる。彼女はぼくのほうに顔を向けた、急にはじめてぼくの姿に気づいたようであり、非難するような目をぼくにそそぐ、いまやその顔は真剣だ、怖じ気づき、不信感をもち、驚き、あるいは憤慨しているかのようにぼくをまじまじと見つめている。しかしその目はいつのまにやら向きを変えはじめ、また天井を見つめようとしている。彼女はこんな話を聞かされたのだ、かの地では肉がひどく不足し、しかも子供の数が多いので、パトロンや亭主をすみやかに見つけない少女は食べられてしまう、と言うのだ。しかし、レディ・アーヴァはそんなことがほんとうのことだとは信じていない。「そんなの、旅行者たちがでっちあげた作り話よね」と彼女は言う。(pp.163-164)
語り手の「ぼく」は「アーヴァ」(「イーヴァ」)と会話する以外には行為しない。行為するのは専ら「ジョンソン」や侍女の「キム」といった三人称の人たちである*4。しかし、この人たちの行為は「ぼく」を通してのみ語られるのだ。小説を通して、「ぼく」が「ジョンソン」や「キム」の視点で語ることができる根拠というのがわからなかったのだが、上に引いたパラグラフから推測すれば、「ぼく」が語る「ジョンソン」や「キム」の行為、「マヌレ」や「マルシャ」や「キトウ」の受難は、「レディ・アーヴァ」経由の伝聞ということになるのだろうか。また、「レディ・アーヴァ」の〈告白(?)〉からも明らかなように、この小説に出てくるエピソードはフィクショナルな真実性を剥奪されているといえる。「青い館」で上演される寸劇(グラン・ギニョールというのだろうか)。
そんなことを考えていたら、エピグラフに、

この小説をぜったいに英国領香港に関する記録とみなしてはいけないことを作者ははっきりさせておきたと思う。背景や状況に類似した点があるにしても、それは客観的であるなしにかかわらず、偶然の結果でしかないようだ。(p.7)
という但し書きが掲げられていることを思い出した。
さらに、冒頭の

女たちの肉体がぼくの夢のなかではいつも大きな場所を占めてきたようだ。目がさめているときでも、ぼくは女たちのイメージに悩まされつづけている。彎曲したうなじをあらわに見せている夏服姿のひとりの娘――サンダルの紐を結びなおそうとして――下げた頭から髪がなかば垂れさがり、しなやかな肌とブロンドのうぶ毛をのぞかせている、そんな娘を思いうかべるや、ぼくはたちまち気もそぞろになり、ひどく悦に入ってしまう。香港の粋な女たちのはいている、腿の辺りまで裂け、動態にぴったりした窮屈なスカートは、強暴な手でいっきょに引き裂かれ、ふいにその丸みのある、ひきしまった、なめらかに光り輝く腰と、そのたおやかな線がむき出しになりそうだ。パリの鞍具商のショー・ウィンドーに陳列されている革の鞭、蠟のマネキン人形のあらわな胸、興行広告、靴下どめや香水の広告、しめってほころびたふたつの唇、鉄の腕輪、犬の首輪などがぼくのまわりに、執拗に挑発するような舞台背景をつくりあげている。ただ一台の四柱式のベッド、細紐一本、葉巻の燃えさしなどが何時間も、あてどない旅では何日もぼくについてまわる。庭園でぼくは祭礼を催す。ぼくは寺院のために祭式を司り犠牲を命じる。アラビヤか蒙古の宮殿がぼくの耳を喚声や溜息でみたしている。ビザンチウムの教会の壁の、左右対称に断ち切られた大理石は、ぼくの目には引き裂かれて大きく口を開けた女の性器に見える。ローマの古代牢獄の奥底の石のなかにはめこまされたふたつの輪は、鎖につながれた美女の奴隷、ひそかに、こっそりと、閑にまかせて、長々と拷問にかけられる美女の奴隷を偲ばせるにじゅうぶんだ。(pp.11-12)
というパラグラフを読めば、この小説の設定は、非モテ青年たる「ぼく」の白昼夢だということになり、訳者の若林真が「解説」で、ジャン・アルテルという人の解釈を紹介しているが、それについても頷いてしまう;

(前略)まずアルテルは諸人物のイニシャルに一つの関連があることに着目している。たとえば「ジョンソン=Johnson」「ジョンストン=Jonestone」という名前のイニシャル《J》は、語り手の《Je=ぼく》に関係があり、「マヌレ=Manneret」「マルシャ=Marchat」「マルシャン=Marchand」などの《M》は、一人称単数代名詞の目的格《me》に綴字からも関連がある。また、ジョンソン、マヌレ、マルシャなどの男たちにかかわりのある女性のイニシャルも、なかなか意味深長なのだ。「ローレン=Lauren」、「ロレーヌ=Loraine」、「ローリーン=Laureen」のイニシャルはそれぞれ《L》(エル)であり、三人称単数女性代名詞《elle》(エル)と無関係ではないだろう。つまり、登場人物のあらゆる関係は、《Je=ぼく》と《Elle=彼女》の根源的な関係に還元されるのである。《ぼく》が《彼女》を夢見ているのだ。この夢想の集約としてレディ・アーヴァがいる。(略)「アジー女王=Princess Azzy」、「レディ・アーヴァ=Lady Ava」、「イーヴァ・バークマン=Eva Betgmann」……音はアジーからアーヴァへ、アーヴァからイーヴァへと転調しながら、人類最初の女性、永遠に女性なるもの「イーヴ=Eve」にゆきつくだろう。
作中のジョンソンの目まぐるしい動きは、「ぼく」の、したがって作者ロブ=グリエの、したがってまた「ぼく」たち読者めいめいの想像力の展開過程なのである。この事実を説明しようとして、アルテルはRalph Johnson(ラルフ・ジョンソン)とRobbe-Grillet(ロブ=グリエ)の綴字の数の一致にまで着目し、いずれも5+7であると指摘している。(pp.200-201)
http://d.hatena.ne.jp/Portunus/20110112に『快楽の館』における「色」の問題への言及あり。

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080220/1203486497

*2:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20111223/1324566440

*3:大世界?

*4:この人たちがアクションの人だとすると、富豪の「エドゥアール・マヌレ」や貿易商の「ジョルジュ・マルシャ」、さらには長崎から売られてきた日本人娼婦「キトウ」は(〈受動態の人〉という意味で)パッションの人ということができる。