エミリーもいるしなど

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a5f.htmlのコメント欄で「哲学の味方」という人が


アメリカは、実際には、ヨーロッパに比べて女性の平等化は進んでおらず、それだけにフェミニズムもヨーロッパよりも戦闘的になるのではないでしょうか。私はフェミニズムにはあまり詳しくないので、印象に過ぎませんが。女性への社会的評価は、ヨーロッパの方がアメリカよりも、昔から高めだったように思います。このブログでは、とても唐突な議論になるかと思いますが、私は、文学についてそういう印象を持っています。イギリスには、ジェーン・オースティン、ブロンテ姉妹、アガサ・クリスティヴァージニア・ウルフなど、フランスにはマルグリット・ユルスナールマルグリット・デュラスなど、少し文学好きの人なら、たちどころに名前のあがる女性作家がいますが、アメリカでそのレベルで有名な女性作家はいないというのが、とてもシンボリックだと思えるので。
と書いている。そうかな。米国には19世紀に詩人のエミリー・ディッキンソン*1がおり、20世紀にはガートルード・スタインがおり *2、現代のSF或いはファンタジーに目をやればアーシュラ・K・ル・グイン*3がいる。また、文藝批評家としてのスーザン・ソンタグ*4を忘れてはいけないだろう。これらの人々の文学史における重要性は「哲学の味方」という人が名前を挙げた人々と甲乙つけ難い。また、特に「文学好き」でなくても、少なくとも高等教育を受けた人であればこれらの人々の名前くらいは知ってて当然だとは思うけれど。
さて、濱田濱口氏のエントリーの「追記」で、渡部せつ子さんの上野千鶴子さんへのインタヴュー記事「「あなたたちは、企業と心中してはいけない」」*5が参照されている。それについて濱田濱口氏曰く、

日本では社会民主主義の一類型として、マクロレベルではなくミクロレベルでの労使妥協に基づく雇用システムとそれに適合的な社会システムを生み出した結果、それが女性の社会進出に対してきわめて抑制的なメカニズムとなってしまい、それに対する批判としてのフェミニズムが、世界一般において社会民主主義(米語のリベラリズム)に対する批判として登場したネオリベラリズムと、見事に同期化したことが、この上野さんをはじめとするラディカルなフェミニストの言論を、とりわけ90年代において市場原理主義的なものときわめて近いものにした最大の原因となったわけです。
また、コメント欄に曰く、

本エントリでいいたかったことは、必ずしもアメリカ型、ヨーロッパ型ということではなく、日本におけるフェミニズムがその唱道者のおそらく本来の政治的志向であったであろう社会民主主義アメリカでいうリベラリズム)の色彩よりも、彼らにとっては本来は必ずしも本意ではなかったであろうはずの市場原理主義的な色彩を強く持つようになったのはなぜなのだろうか、という問題意識です。

彼女らをネオリベだと批判することは全然目的ではありませんし、そもそもそういう風にも考えていません。しかし、日本における社会民主主義が日本型雇用システムという形をとることによって、女性の労働市場における活躍に対して制約的に働く中で、(ある種の反体制思想に逃げ込むことなく)リーズナブルな形で現実に可能なオルタナティブを求めたときに、結果的にネオリベラルな言説がきわめて有効なものとなったことは否定しがたい事実であろうと考えています。

上野さんの言説は、新自由主義の問題点も承知した上での相当に戦略的なものだと思う。勿論、「日本型雇用システム」を挟んでみると、新自由主義に対しては〈敵の敵〉という意識が少なからぬフェミニストに共有されているだろうということは想像できる。しかし、そうしたフェミニストを旧来の「社会民主主義」とか「日本型雇用システム」の立場から批判することはできないだろうとは思う。何しろ、それは日本人男性限定だったわけだから。これについては、山田昌弘希望格差社会』第4章「戦後安定社会の構造」*6をマークしておくけれど、思い出したのはバブルその前後の時代というのは、「日本型雇用システム」というか日本的経営マンセーの時代でもあったのだった*7社会主義(旧蘇聯)も市場原理主義(米国)も駄目で、これからは資本主義と社会主義アウフヘーベンした日本的な〈会社主義〉だ! とか。或いは、資本主義って言うな、〈人本主義〉って言え! とか。当然、批判的な言説も〈会社主義〉に向けられていた。佐高信氏が評論家としてブレイクしたのは〈会社主義〉への批判者としてだったし、奥村宏氏の「法人資本主義」論もそれを〈経済成長の原動力〉として賛美するものではなく、労働者の企業への隷属をもたらしたものとして批判するためのものであった(Eg. 『法人資本主義―「会社本位」の体系』、『会社本位主義は崩れるか』、『「会社本位主義」をどう超える』)。しかし、その後「日本型雇用システム」自体がグローバル化その他の情勢の変化によって、或いは新自由主義の進展によって危機を深めていくとともに、〈会社主義〉に対する批判的言説は影を潜めてゆく。さらに、日本が本格的に新自由主義化した小泉政権以降になると、反新自由主義の立場からかつての〈会社主義〉への回帰が恥ずかしげもなく主張されるようになる。例えば、かつてあれほど批判された法人間の株式持合いもいかがわしい禿鷹だとかなんちゃらファンドの跋扈を阻止するために復活すべき理想とされる。そういうのはネットを彷徨えば飽きるほど見ることができる。(屡々ファロサントリスムやエスノセントリズムと結びついた)〈会社主義〉というのは決して死んではいない。そういう中では、仮令「ネオリベ」の汚名を着ようとも挑発的な物言いをしなければならないということはあるのだろう。
法人資本主義―「会社本位」の体系 (朝日文庫)

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会社本位主義は崩れるか (岩波新書)

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「会社本位主義」をどう超える―新しい企業社会のパラダイム

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See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090303/1236060278 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090911/1252702033