榎本泰子『上海』

上海 - 多国籍都市の百年 (中公新書)

上海 - 多国籍都市の百年 (中公新書)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101007/1286467514でも引用した榎本泰子『上海 多国籍都市の百年』(中公新書、2009)を先日読了。


序章 上海租界の百年
第1章 イギリス人の野望
第2章 アメリカ人の情熱
第3章 ロシア人の悲哀
第4章 日本人の挑戦
第5章 ユダヤ人の苦難
第6章 中国人の意志


あとがき
参考文献
主要図版出典一覧
上海近現代史略年表

「外国人によって建設され、発展した都市」としての上海(p.9)の近代史が、それに関わった人々の「国籍」別に考察される。
「イギリス人の野望」では、上海における英国人の覇権の衰退についてちょっとメモしてみる;

二〇世紀前半、上海社会の様相を最も大きく変えたのは第一次世界大戦だった。ヨーロッパで始まった戦争は遠く上海にも波及し、イギリス商人は軍事に転用するため持ち船を本国に戻さなければならなくなった。船がなければ貿易は成り立たず、輸送費は高騰し、商工業も停滞した。一九一七年に中国政府がドイツ、オーストリアに宣戦布告すると、両国は最恵国待遇を失い、バンドのドイツ銀行は閉鎖され、黄浦江のドイツ船とオーストリア船は抑留された。欧州本国の利害を直接反映しないはずの共同租界でも、参事会のドイツ人参事が辞任を余儀なくされた。イギリス人たちの反ドイツ感情は高かったのである。本国へ帰って従軍し、戦死したイギリス人の名前が新聞に掲載されるようになるとなおさらであった。
イギリスやフランスの資本が後退した代わりに、アメリカや日本の資本が進出し、上海の勢力地図は塗り替えられることになる。人口の変動も大きく、一九一五年には日本人がイギリス人の数を抜き、租界の外国人の中で第一位となった(第2章参照)。
大戦中、約五〇〇人ものイギリス人が従軍するために上海を離れた。イギリス人成年男子の減少は、イギリス人中心で運営されていた工部局の体制にも影響を与えていた。だからこそ、たとえば戦後の一九一九年に、工部局警察は七四人ものイギリス人を本国で募集し、上海で勤務させた。彼らの多くは復員軍人や農村出身の労働者で、戦争で疲弊したイギリス国内で職にありつくことができず、新天地を求めて応募したのである。
彼らはそもそも都会で暮らしたことがなく、当初上海の繁栄に幻惑され、中国人のボーイを使う身分になっただけで喜んだ。しかし上海のイギリス人社会は国内における階級意識をそのまま持ち込んでおり、貴族や大商人から見れば、警察官などはものの数に入らなかった。同じ国の人間に軽んじられる一方、中国人の前では大英帝国の威光を示す存在でなければならないという、複雑な立場に置かれるうち、彼らの心理は屈折していく。(後略)(pp.54-55)
アメリカ人の情熱」からは、先ず米国の印象について;

(前略)アメリカが第一次世界大戦後空前の繁栄を迎えると、アメリカ渡来の製品――香水、ストッキング、ラジオ、自動車など――は、豊かさの象徴として人々のあこがれとなる。
そしてアメリカ人という存在もまた、上海の中国人の前に新しいイメージで現れた。アメリカ人の陽気さや、フレンドリーな物腰は、支配者然としたイギリス人に比べて親しみを感じさせた。イギリスと異なり、アメリカは中国と直接戦火を交えたことがないことも、好感を持ちやすい要因のひとつであった。一九二九年の大恐慌アメリカの発展を大きく後退させたが、その影響は遅れて上海に届いたため、ドルの威力はなおしばらく強かった。だから一九三一年に上海を訪れたヘレン・フォスター*1も「額にドルの印を付けた貴族」になることができたのである。(p.79)
また、米国の「教育」への影響をメモしておく;

イギリスが経済的利益を至上とし、現地住民との関わりをできるだけ避けたのに対し、アメリカは特に教育を通じて、中国の近代化を促進しようとした。なかでもプロテスタント各派が行なった中国人向けの高等教育は、徹底した英語教育や、スポーツ活動の重視などにより、知識層のライフスタイルに大きな影響力を与えた。
たとえば聖ジョンズ大学(聖約翰大学)は、一八七九年に聖公会の宣教師によって設立され、「中国のハーヴァード大学」とも言われた名門である。当初英語教育を中心とする地元の「書院」だったのを、一九〇五年にアメリカのワシントンに登記し、文学、理学、工学、医学、神学の各学部と大学院、附属高校を併せ持つ総合大学に拡張した。この大学で学んだ者はアメリカの大学の卒業生と同等の学位を持ち、卒業後にアメリカの大学院に留学することができた。(pp.108-109)

聖ジョンズ大学はアメリカ式の教育を通じて、上海の上流階級の子弟に西洋の学術思想や生活様式を浸透させた。この学校が「アメリカの大学」になった一九〇五年はちょうど科挙が廃止された年でもあり、学業の目標を失った知識層の受け皿として、各地の教会学校が人気を集めた時代であった。教会学校は、中国に良質の信徒や宣教師の人材を育てるという、設立当初の意図や機能を次第に弱め、それと反比例するように社会的影響力を増していった。(p.111)
「ロシア人の悲哀」から;

(前略)帰る国を失ったロシア人たちは、運命を諦めたように黙々と働き、犯罪に走ることもほとんどなかった。他の外国人と異なり、中国人に対して支配者づらをすることもなく、地域にとけこもうという努力が見られた。彼らは上海を第二の故郷と思い定めようとしていたのである。年月が経つうち、租界の人々のロシア人を見る目は少しずつ変わっていき、手堅い商売を続けた者や、専門的な技術を身に付けた者はささやかな成功を収めるようになってきた。一九二〇年代末には、上海で一流と言われる医師、建築家、エンジニアのうち、ロシア人が一割以上を占めたという。(p.122)

上海租界は貿易と商工業で発展した街であり、さまざまな国籍の人々が経済的利害のために寄り集まる場所であった。そのため欧米人たちは、しばしば上海の地に「文化がない」ことを嘆いていた。ヨーロッパの地において宮廷や貴族が守り育ててきた「伝統」や、歴史的・体系的な「芸術」は、上海という新興都市には欠落していた。そこを思いがけず埋めてくれたのが白系ロシア人であった。上海の「成金」たちは、初めて見る本物の貴族(中には「自称貴族」もいたという)にあこがれと敬意を持ち、彼らのサロン文化や芸術活動を通じてヨーロッパの香りを味わおうとした。難民であるロシア人が上海の経済に重要な役割を果たすことはなかったが、文化的な貢献はきわめて大きかったのである。(p.137)

ロシア人は、貧しく不安定な境遇のゆえに、中国人にとっても身近な存在だった。彼らは地元の社会にとけこもうと努力し、商売を通じて中国人とも交流した。ハルピンなど中国東北部から流れてきたロシア人は、もともと中国人と共存することに慣れていたとも言える。ロシア人経営の飲食店のメニューや、ロシア料理を習い覚えた中国人も少なくなかった。「羅宋湯」(ロシアン・スープ=ボルシチ)や、手作りのマヨネーズであえたポテトサラダ*2などは、今日も上海の家庭料理の中に生きているという。
上海租界に住む外国人うち、帰る国をなくし、治外法権の特権もなくしたロシア人が、最も広く深く、その生活スタイルを上海の社会に浸透させたことは興味深い。(略)
[陳丹燕によれば]上海の中国人は、租界時代にひとたび味わった「西洋」――庭のバラや、ピアノの音色や、コーヒーの香りを、文化大革命の時代すらも忘れなかった、というのである。そのような生活への「こだわり」を教えたのは、イギリス人でもアメリカ人でもなく、「フランス租界のロシア人」だった。(pp.138-139)
日本人社会の構成について;

上海の日本人社会は、人口総数が多い分、階層分化が激しかった。「ひと旗組」じゃ虹口で日本人相手の商売に従事し、最後は上海に骨を埋める覚悟であった。このような人々を「土着派」と呼ぶ。一方、大銀行・大会社から上海支店に派遣された人々もいた。彼らにとって上海は任地の一つに過ぎず、任期が終われば日本へ帰るか、ニューヨーク、パリなどの支店に転勤して行った。このような人々を「会社派」と呼ぶ。「土着派」と「会社派」のライフスタイルや意識には大きな差があり、居留民組織の中で対立を招くこともあった。
「土着派」と、「会社派」の中間層(サラリーマン)が住む場所が虹口である。日本人経営の商店が建ち並び、日本語ですべての用が済む虹口は、時として外国で暮らしているということを忘れさせた。一方「会社派」の中のエリート層(支店長、幹部社員クラス)は、欧米人のように共同租界のオフィス近くに暮らし、最も裕福なものはフランス租界に自宅を持っていた。つまり上海の日本人は、社会的ステータスが高いほど暮らしが欧米化しており、低いほど日本と同様の暮らしを営んでいたのである。一九二〇年代末頃、上海の日本人居留民総数のうち、「会社派」エリート層が三パーセント、「会社派」中間層が四〇パーセントを占め、その他多数が「土着派」であったという。
金もなく、コネもなく、英語もフランス語もできない庶民にとっては、虹口こそが上海のすべてであり、欧米人の闊歩する租界中心部には足を踏み入れることもできなかった。虹口と共同租界中心部は蘇州河で隔てられており、ガーデンブリッジで結ばれているとはいえ、その心理的障壁は大きかった。虹口の日本人は、バンドの摩天楼や音に聞く南京路を思い描き、あこがれを込めて「河向こう」と呼んだ。(pp.149-151)

虹口に住む日本人は共同租界工部局の行政管理下にあったが、人々の意識レベルでは、共同租界の一員というよりは、「虹口=日本人街の一員」という方がふさわしかった。すねての日本人は各町内会を通じて「上海居留民団」に所属し、外務省機関(上海においては総領事)の監督を受ける存在として位置づけられている。居留民団は紡績会社などからの寄付金を主な財政基盤とし、民団立学校(小学校、高等女学校、商業学校など)や、墓地・火葬場の経営など、住民の暮らしに密接に関わっていた。財政の関係で、居留民団の理事機関である「行政委員会」の委員は、大会社の重役や銀行支店長などから選ばれた。少数のエリートが多数の民衆の福利厚生を図るという構図は、工部局参事会の成立経緯とも似ている。(p.175)
なお、この本は堀田善衛『上海にて』*3に対する強烈な皮肉とともに閉じられる(p.264)。
上海にて (集英社文庫)

上海にて (集英社文庫)

上海に関わった様々な国の人で、追加されるべきは韓国人だろう。何しろ上海は大韓民国発祥の地でもあるのだから。
この本の記述は共同租界が中心で、仏蘭西租界にはあまり触れられていない。仏蘭西租界についてのコンパクトな本として、にむらじゅんこ『フレンチ上海』をマークしておく。但し、観光ガイドとして使うには既にちょっと厳しい。また、上海に関する歴史社会学的考察として、根橋正一先生の『上海―開放性と公共性』をマークしておく。
フレンチ上海 (コロナ・ブックス)

フレンチ上海 (コロナ・ブックス)

上海―開放性と公共性

上海―開放性と公共性