「ユダ」の「ホーム」

関田寛雄「深い闇の中で朝の到来を信じる」『本のひろば』(キリスト教文書センター)769、pp.16-17、2022


奥田和志『ユダよ、帰れ コロナの時代に聖書を読む』の書評。


著者は三十有余年に及ぶ北九州のホームレスの方々との出会いの中で「神不在」の悲惨な状況に巻き込まれつつ「不在の神に祈る」(シモーヌ・ヴェイユ)、「神の前に神と共に神なしで生きる」(ボンヘッファー)という信仰を養われてきた。だから「キリスト教徒にならないと救われない」というような「スケールの小さい」キリスト教とはっきり決別する。学生時代に大阪・釜ヶ崎での労働者との出会いから始まった著者の働きは、その現場の中に隠されたイエスとの出会いに触発され、一人一人の物語の中にイエスの生きて働く姿を見出し、それに導かれて牧師を続けている。
それゆえ本書を別の表題で表すとすれば『オクダによる福音書――”あなた”を招く慰めと希望の言葉』となるべきだろう。(後略)(p.16)

圧巻は、表題ともなっている説教「ユダよ、帰れ――ホームとは何か」である。従来キリスト教会では、イエスを裏切った極悪人としてイスカリオテのユダこそ救われない人間として伝統的に語り継がれてきた。ペテロをはじめ十一弟子もイエスを捨てて四散した。しかしユダだけは自分の非を認め銀三十枚も祭司長、長老たちに返しに来た。しかし彼らは言った。「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」と。いわゆる自己責任論である。追いつめられたユダは首をつって死んだ。著者はさらに言う。「彼は帰る場所を間違った。赦しのない場所に帰ってしまった。……もし、ユダが帰るべき場所、『ホーム』に帰れたら、彼は生きられたと思います」。そして著者は、地獄に落ちたユダに対して、イエスに次のように語らせる。
「『ユダよ、帰れ。お前が帰るべきは私のところなのだ。私こそがお前の帰る場所、ホームなのだ。私はお前よりも先に地獄に下り、お前の受けるべき裁きも受けた。お前の罪は裁かれた。大丈夫だ。お前は赦された罪人としてこれからも生きるのだ。私と一緒においでなさい。さあ帰ろう』。ユダはイエスに抱きとめられ天へと昇っていきました。イエスの懐に抱かれたユダは、まるで赤ちゃんのように大声で泣き続けました。その日、ユダは帰郷を遂げたのです」(一〇〇頁)。(p.17)